王であるキリスト (ヨハネ18・33b〜37)
- 2015/11/20
- 07:52
「わたしの声に聞き従う」という種
典礼では、『待降節第1主日』から新しい年となり、最後の週は、『王であるキリスト』で終わりとなります。週日の典礼でも、この『王であるキリスト』に近づくにつれて【終末】について黙想するようなみことばが読まれます。本日祝われる『王であるキリスト』を黙想することで、私たちは、1年間を通して黙想してきた「キリストとは、私たちにとってどのようなお方なのでしょうか」ということを改めて振り返る機会となると言ってもいいかもしれません。それは、言い換えますと、私たちの信仰者としての歩む【道】と言ってもいいでしょう。
きょうのみことばは、イエス様がピラトから尋問される箇所です。この中でピラトは、イエス様に「お前はユダヤ人の王なのか」と2回も尋ねています。これは、私たちがイエス様に尋ねる言葉、また、私たち自身が信じている「イエス様」が私たちにとって「本当に王なのか」という問いかけということなのかもしれません。ユダヤ人の指導者たちは、自分たちの権力、地位、名声を守るために、人々の気持がイエス様に傾いていることを非常に恐れ、亡き者にしようとしていました。そのために、自分たちでは、「死刑」にできないため、当時の支配者である、ローマの総督であるピラトにイエス様を引き渡します。ある意味このことは、自分たちの手を汚さずにピラトを利用すると言う非常に姑息な考えでした。
ピラトもこのユダヤ人たちの考えを分かっていました。きっと、ピラトもこのようなことを正直引き受けたくなかったことでしょう。しかし、「総督」という務めに就いている以上しかたがないことでしたし、保身のためにユダヤ人たちの要望を受け入れます。ピラトは、ユダヤ人たちがどのような罪でイエス様を訴えているのかを分かっていたのでしょう、それで「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねます。ピラトに限らず、ローマ人たちは、ユダヤ人たちを軽蔑していました。ピラトの質問は、彼の好奇心であり、あまり意味がない言葉でもあったのです。ただ、皮肉なことにピラトのこの質問は、イエス様を「王である」と言い表している言葉となってしまったのではないでしょうか。
イエス様は、ピラトの考えをご存知だったのでしょう、「あなたは自分の考えでそういうのですか。それとも、ほかの人がわたしについてそう言ったのですか」と逆に質問されます。イエス様のこの質問は、私たち1人ひとりに対しての問いかけなのかもしれません。私たちは、イエス様を心から信じて歩んでいるのでしょうか。確かに洗礼の恵みを頂いた私たちは、「イエス様を王として認めていません」とは、言いえません。しかし、時として私たちは、保身のために、また、見栄や自己満足のために本心をごまかした行動や、言葉を使ってしまう傾きがあるのではないでしょうか。
ピラトは、イエス様のこの問いかけに対して、自分の本心を見抜かれたと思って焦り、また、侮辱されたという腹立だしく思ったことでしょう。彼は、「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の国の者たちや祭司長たちが……、いったい何をしたのか。」と答えます。ピラトにしてみれば、夜のくつろぎの時間を、ユダヤ人の指導者たちに時間を取られ、彼らの律法で解決すればいいような問題を解決しなければならないはめになったのです。ピラトの耳にも、イエス様のことは入っていたのかもしれません。この問題をうまく切り抜けなければ、ピラト自身の管理能力が問われ、総督としての地位も危うくなるのかもしれません。イエス様は、ピラトのこの質問に対して、「わたしの国」「わたしの部下」は、という言葉を使われて答えられます。イエス様のこの言葉は、ピラトへの「あなたの質問の意味をじっくり考えてみてください」という投げかけなのではないでしょうか。ピラトは、イエス様の本意を理解できず、安易に「では、お前は【やはり】、王なのか」と再び質問をしたのでした。
イエス様は、「わたしが王であるとは、あなたの言っていることである。……真理に属している人はみな、わたしの声に聞き従う」と言われます。イエス様は、ご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ13・6)と言われました。イエス様は、「ご自分に属している人はみな、わたしの声に聞き従う」とピラトに答えられたのでした。
洗礼の恵みを頂いた私たちは、真理であるイエス様に属した者として、イエス様の声に聞き従って歩んでいるでしょうか。私は本心から人々に接し、考えを表しているでしょうか。また、私たちは、イエス様を「王」として、本当に歩んでいるでしょうか。いま一度私たちの心を見つめ直し、イエス様に聞き従うことができますように恵みを祈りながら歩んで行けたらいいですね。
典礼では、『待降節第1主日』から新しい年となり、最後の週は、『王であるキリスト』で終わりとなります。週日の典礼でも、この『王であるキリスト』に近づくにつれて【終末】について黙想するようなみことばが読まれます。本日祝われる『王であるキリスト』を黙想することで、私たちは、1年間を通して黙想してきた「キリストとは、私たちにとってどのようなお方なのでしょうか」ということを改めて振り返る機会となると言ってもいいかもしれません。それは、言い換えますと、私たちの信仰者としての歩む【道】と言ってもいいでしょう。
きょうのみことばは、イエス様がピラトから尋問される箇所です。この中でピラトは、イエス様に「お前はユダヤ人の王なのか」と2回も尋ねています。これは、私たちがイエス様に尋ねる言葉、また、私たち自身が信じている「イエス様」が私たちにとって「本当に王なのか」という問いかけということなのかもしれません。ユダヤ人の指導者たちは、自分たちの権力、地位、名声を守るために、人々の気持がイエス様に傾いていることを非常に恐れ、亡き者にしようとしていました。そのために、自分たちでは、「死刑」にできないため、当時の支配者である、ローマの総督であるピラトにイエス様を引き渡します。ある意味このことは、自分たちの手を汚さずにピラトを利用すると言う非常に姑息な考えでした。
ピラトもこのユダヤ人たちの考えを分かっていました。きっと、ピラトもこのようなことを正直引き受けたくなかったことでしょう。しかし、「総督」という務めに就いている以上しかたがないことでしたし、保身のためにユダヤ人たちの要望を受け入れます。ピラトは、ユダヤ人たちがどのような罪でイエス様を訴えているのかを分かっていたのでしょう、それで「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねます。ピラトに限らず、ローマ人たちは、ユダヤ人たちを軽蔑していました。ピラトの質問は、彼の好奇心であり、あまり意味がない言葉でもあったのです。ただ、皮肉なことにピラトのこの質問は、イエス様を「王である」と言い表している言葉となってしまったのではないでしょうか。
イエス様は、ピラトの考えをご存知だったのでしょう、「あなたは自分の考えでそういうのですか。それとも、ほかの人がわたしについてそう言ったのですか」と逆に質問されます。イエス様のこの質問は、私たち1人ひとりに対しての問いかけなのかもしれません。私たちは、イエス様を心から信じて歩んでいるのでしょうか。確かに洗礼の恵みを頂いた私たちは、「イエス様を王として認めていません」とは、言いえません。しかし、時として私たちは、保身のために、また、見栄や自己満足のために本心をごまかした行動や、言葉を使ってしまう傾きがあるのではないでしょうか。
ピラトは、イエス様のこの問いかけに対して、自分の本心を見抜かれたと思って焦り、また、侮辱されたという腹立だしく思ったことでしょう。彼は、「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の国の者たちや祭司長たちが……、いったい何をしたのか。」と答えます。ピラトにしてみれば、夜のくつろぎの時間を、ユダヤ人の指導者たちに時間を取られ、彼らの律法で解決すればいいような問題を解決しなければならないはめになったのです。ピラトの耳にも、イエス様のことは入っていたのかもしれません。この問題をうまく切り抜けなければ、ピラト自身の管理能力が問われ、総督としての地位も危うくなるのかもしれません。イエス様は、ピラトのこの質問に対して、「わたしの国」「わたしの部下」は、という言葉を使われて答えられます。イエス様のこの言葉は、ピラトへの「あなたの質問の意味をじっくり考えてみてください」という投げかけなのではないでしょうか。ピラトは、イエス様の本意を理解できず、安易に「では、お前は【やはり】、王なのか」と再び質問をしたのでした。
イエス様は、「わたしが王であるとは、あなたの言っていることである。……真理に属している人はみな、わたしの声に聞き従う」と言われます。イエス様は、ご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ13・6)と言われました。イエス様は、「ご自分に属している人はみな、わたしの声に聞き従う」とピラトに答えられたのでした。
洗礼の恵みを頂いた私たちは、真理であるイエス様に属した者として、イエス様の声に聞き従って歩んでいるでしょうか。私は本心から人々に接し、考えを表しているでしょうか。また、私たちは、イエス様を「王」として、本当に歩んでいるでしょうか。いま一度私たちの心を見つめ直し、イエス様に聞き従うことができますように恵みを祈りながら歩んで行けたらいいですね。
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