年間第20主日 (ヨハネ6・51〜58)
- 2015/08/12
- 07:22
イエス様の「肉」を食べるという種
食堂街に行きますと、「○○ステーキハウス」とか「焼き肉○○」という看板を目にします。また、家族や仲間たちとキャンプなどで「バーベキュー大会」などをされることもあるでしょう。体質的に「肉」を食べることが苦手な方以外は、「ステーキ」や「焼き肉」を嫌いな方はいないのではないでしょうか。特に、たくさんの方と食べる「焼き肉」は、会話が弾み楽しく食べることができるものです。
きょうのみことばは、イエス様が人々に「わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である」(ヨハネ6・51)と言われたことから、ユダヤ人たちが議論を始めた場面です。ユダヤ人たちは、「パンを増やされた奇跡」からイエス様の所へ集まってきました。最初は、イエス様に好意を持っていたユダヤ人たちでしたが、イエス様の教えを聞くうちにだんだん疑問を抱くようになってきました。その1つとして「わたしが天から降ってきたパンである」と言われたことでした。次にきょうのみことばの話題となる「わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である」という言葉でした。
ヨハネ福音書の6章は、「神秘的」な話しをされるイエス様と、その話しを「人間的」に捉えようとするユダヤ人たちのギャップが目立ちます。福音書を読んでいる私たちは、このイエス様とユダヤ人たちの会話を自然に受け入れることができるかもしれませんが、彼らにとってイエス様の言葉は、全く理解できないほど刺激的なことばでした。みことばには、「不平を言い始めた」(ヨハネ6・41)から「互いに激しく議論を始めた」(ヨハネ6・52)へと変化しています。彼らに取ってイエス様の教えは、自分たちの生き方を根本から覆すものだったのです。イエス様の教えは、ユダヤ人たちだけではなく私たちの日常の生活の中にも驚きや、感動、ときには、「どうして」というようなことを投げかけられます。そのようなとき、私たちは、どのようにしたらいいのでしょう。私たちは、どのような反応をしているのでしょうか。ユダヤ人たちの反応は、もしかしたら私たちの反応かもしれません。
イエス様は、ユダヤ人たちに「よくよくあなた方に言っておく」と言われ、火に油を注ぐように「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われます。イエス様は、人々に大切なことを伝える時には、「よくよくあなた方に言っておく」という言葉を使われます。ここでは、イエス様がご自分の「肉」を食べ、そして、ご自分の「血」を飲まなければ、「永遠の命を得ることも復活することもできない」と言われます。では、イエス様の「イエス様がご自分の『肉』を食べ、そして、ご自分の『血』を飲む」ということはどのようなことなのでしょう。
これは、イエス様の「十字架」を受け入れることではないでしょうか。イエス様は、「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)と言われます。私たちがイエス様を「食する」ということは、私たちもイエス様の「十字架」に参与することではないでしょうか。イエス様は、続けて「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしに留まり、わたしもその人の内に留まる。」と言われます。イエス様は、ここで、「十字架を担う」私たちに、「決してあなた方だけが『十字架』を担うのではありませんよ」と言われているようです。イエス様は、私たちが「十字架を担うとき」イエス様も一緒に担ってくださるということをお約束されているのです。もちろん、イエス様だけではなく「三位一体の神」が私たちと一緒になって「担って」くださっているのではないでしょうか。
洗礼の恵みをいただいた私たちは、「三位一体の神」からミサの中で「みことば」と「聖体」という糧をいただき、この「糧」に養われていると言ってもいいでしょう。第一朗読の箴言には「やって来て、わたしのパンを食べ、わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。無知を捨てて、生きなさい。そして、悟りの道を歩みなさい」(箴言9・6)と言われます。いつでもおん父は、私たちに対して、このような優しい言葉掛けをされているのではないでしょうか。
パウロは、「キリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈にまで達するようになるのです」(エフェソ4・13)と言っています。私たちは、三位一体の神から「みことば」と「聖体」を私たちの体いっぱいにいただき、私たちの体をイエス様で満たすことができたらいいですね。私たちは、イエス様がくださった「十字架」という「肉」と「血」を心から受け入れ、一歩一歩少しずつでもイエス様で充満することができますよう、イエス様に願い、祈ることができたらいいですね。
食堂街に行きますと、「○○ステーキハウス」とか「焼き肉○○」という看板を目にします。また、家族や仲間たちとキャンプなどで「バーベキュー大会」などをされることもあるでしょう。体質的に「肉」を食べることが苦手な方以外は、「ステーキ」や「焼き肉」を嫌いな方はいないのではないでしょうか。特に、たくさんの方と食べる「焼き肉」は、会話が弾み楽しく食べることができるものです。
きょうのみことばは、イエス様が人々に「わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である」(ヨハネ6・51)と言われたことから、ユダヤ人たちが議論を始めた場面です。ユダヤ人たちは、「パンを増やされた奇跡」からイエス様の所へ集まってきました。最初は、イエス様に好意を持っていたユダヤ人たちでしたが、イエス様の教えを聞くうちにだんだん疑問を抱くようになってきました。その1つとして「わたしが天から降ってきたパンである」と言われたことでした。次にきょうのみことばの話題となる「わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である」という言葉でした。
ヨハネ福音書の6章は、「神秘的」な話しをされるイエス様と、その話しを「人間的」に捉えようとするユダヤ人たちのギャップが目立ちます。福音書を読んでいる私たちは、このイエス様とユダヤ人たちの会話を自然に受け入れることができるかもしれませんが、彼らにとってイエス様の言葉は、全く理解できないほど刺激的なことばでした。みことばには、「不平を言い始めた」(ヨハネ6・41)から「互いに激しく議論を始めた」(ヨハネ6・52)へと変化しています。彼らに取ってイエス様の教えは、自分たちの生き方を根本から覆すものだったのです。イエス様の教えは、ユダヤ人たちだけではなく私たちの日常の生活の中にも驚きや、感動、ときには、「どうして」というようなことを投げかけられます。そのようなとき、私たちは、どのようにしたらいいのでしょう。私たちは、どのような反応をしているのでしょうか。ユダヤ人たちの反応は、もしかしたら私たちの反応かもしれません。
イエス様は、ユダヤ人たちに「よくよくあなた方に言っておく」と言われ、火に油を注ぐように「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われます。イエス様は、人々に大切なことを伝える時には、「よくよくあなた方に言っておく」という言葉を使われます。ここでは、イエス様がご自分の「肉」を食べ、そして、ご自分の「血」を飲まなければ、「永遠の命を得ることも復活することもできない」と言われます。では、イエス様の「イエス様がご自分の『肉』を食べ、そして、ご自分の『血』を飲む」ということはどのようなことなのでしょう。
これは、イエス様の「十字架」を受け入れることではないでしょうか。イエス様は、「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)と言われます。私たちがイエス様を「食する」ということは、私たちもイエス様の「十字架」に参与することではないでしょうか。イエス様は、続けて「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしに留まり、わたしもその人の内に留まる。」と言われます。イエス様は、ここで、「十字架を担う」私たちに、「決してあなた方だけが『十字架』を担うのではありませんよ」と言われているようです。イエス様は、私たちが「十字架を担うとき」イエス様も一緒に担ってくださるということをお約束されているのです。もちろん、イエス様だけではなく「三位一体の神」が私たちと一緒になって「担って」くださっているのではないでしょうか。
洗礼の恵みをいただいた私たちは、「三位一体の神」からミサの中で「みことば」と「聖体」という糧をいただき、この「糧」に養われていると言ってもいいでしょう。第一朗読の箴言には「やって来て、わたしのパンを食べ、わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。無知を捨てて、生きなさい。そして、悟りの道を歩みなさい」(箴言9・6)と言われます。いつでもおん父は、私たちに対して、このような優しい言葉掛けをされているのではないでしょうか。
パウロは、「キリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈にまで達するようになるのです」(エフェソ4・13)と言っています。私たちは、三位一体の神から「みことば」と「聖体」を私たちの体いっぱいにいただき、私たちの体をイエス様で満たすことができたらいいですね。私たちは、イエス様がくださった「十字架」という「肉」と「血」を心から受け入れ、一歩一歩少しずつでもイエス様で充満することができますよう、イエス様に願い、祈ることができたらいいですね。
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