受難の主日(枝の主日) (マルコ15・1〜39)
- 2015/03/27
- 07:55
いつくしみの愛を想うという種
私たちにとってイエス様とは、どのようなお方なのでしょうか。私たちは、福音書を通してイエス様がどのようなことを教えられ、人々を癒し、奇跡を行われたかということを知ることができます。では、【私】にとってイエス様は、どのようなお方なのでしょうか。例えば、厳しい方、優しい方、いつも側にいてくださる方、一緒に喜び、泣いてくださる方など、いろいろなイエス様の捉え方があることでしょう。そしてその中でも、確実なことは、誰よりも【私】を愛してくださるお方ではないでしょうか。小説やドラマなどで、「世界中の人があなたを憎んでも、私だけがあなたのことを愛している」というような台詞を聞いたことがありますが、まさに、イエス様だけが【私】を愛してくださるのです。
きょうのみことばは、イエス様にとって一番長い1日の出来事でした。不正な裁判から始まり、人々からあざけられ、侮辱され、十字架を担い、そして、亡くなられます。イエス様は、ご自分の最期の言い表すことができない、苦しみをご存知であったにも関わらず、それをお受けになられたのです。イエス様は、ゲッセマネの園で、「深く恐れ、悶え始め、弟子たちに『わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである。ここにいて、目を覚ましていなさい』」(マルコ14・33〜34)と言われるほど、人として苦しまれました。その苦しみがきょうのみことばで現実なものとなったのです。
ユダヤ人の最高法院全体は、イエス様を縛ってピラトの所に引き渡しに行きます。この中にある「縛って」という言葉は、凶悪犯への対応でした。イエス様は、同胞であるユダヤ人たちから異邦人であるピラトに引き渡される時に、【凶悪犯】として扱われていたのです。ピラトは、イエス様に「お前がユダヤ人の王か」と尋ねます。きょうのみことばの中には、イエス様ご自身が「私が王である」とは一言も言われませんが、周りの人の口を通してイエス様が「ユダヤ人の王」であり、「イスラエルの王」であり「神の子」であると伝えています。ユダヤ人たちは、イエス様を否定し、あざけりながら、知らないうちにイエス様のことを「王」であると言っているのでした。
イエス様は、弟子たちにご自分の『受難の予告』をたびたび、お話になられました。マルコ福音書では、「人の子が多くの苦しみを受け、長老や、祭司長や、律法学者たちに排斥され、殺され、そして3日の後に復活する。」(マルコ8・31、9・31、10・33)ということを伝え、特に最後の10章には、もっと詳しく、「……彼らは人の子に死刑を宣告し、そして異邦人に渡す。異邦人は人の子をあざけり、つばを吐きかけ、鞭打ち、ついに殺してしまう。しかし、人の子は3日の後に復活する」と書いてあります。きょうのみことばは、このマルコ福音書の短い10章33節に書かれてあることが、こと細かく私たちに伝えているのです。
残念なことにイエス様から、3度も『受難の予告』を聞かされた弟子たちは、逃げ去りイエス様の【受難】を知ることはできませんでした。しかし、私たちは、福音書を通してイエス様の【受難】を黙想することができます。同胞である最高法院の人たち、今まで病を癒し、パンを与え、「メシア」ではないかとまで思ったユダヤの民衆、さらに異邦人であるピラトや兵士たちから、あざけられ、つばを吐きかけられ、鞭打ちたれ、ついに殺れる、イエス様の苦しみの場に「【私自身】がいたとしたら」と思うとき、私たちは、イエス様の【受難】を深く黙想することができることでしょう。もし、私たちの弱さや傲慢さなどの罪がイエス様への侮辱として、イエス様の受難をいっそう苦しめていたとしたら、と思うとき、私たちは、ユダヤ人たちやローマ人たちが犯した罪と自分の罪と置き換えることができるのではないでしょうか。
イエス様の十字架の左右には、強盗の十字架がかけられていました。イエス様は、最期まで罪人とともにおられます。私たちは、イエス様の【受難】を思うとき、イエス様の苦しみだけに目を留めています。しかし、この【受難】を通して「このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである」(ヨハネ12・27)というイエス様の言葉を思い出すとき私たちは、イエス様の【いつくしみの愛】に【感謝】の思いで溢れ出して来るのではないでしょうか。
きょうのみことばの中で百人隊長は、「まことに、この方は神の子であった。」と言います。彼は、イエス様の長い1日を通して、心からそう思ったのです。私たちは、彼のことばに救われ、希望を持ち、イエス様の【いつくしみの愛】を感じることができることでしょう。復活前の最後の週となって改めてイエス様の【受難】だけではなく、その中にある【いつくしみの愛】を黙想することができるといいですね。
私たちにとってイエス様とは、どのようなお方なのでしょうか。私たちは、福音書を通してイエス様がどのようなことを教えられ、人々を癒し、奇跡を行われたかということを知ることができます。では、【私】にとってイエス様は、どのようなお方なのでしょうか。例えば、厳しい方、優しい方、いつも側にいてくださる方、一緒に喜び、泣いてくださる方など、いろいろなイエス様の捉え方があることでしょう。そしてその中でも、確実なことは、誰よりも【私】を愛してくださるお方ではないでしょうか。小説やドラマなどで、「世界中の人があなたを憎んでも、私だけがあなたのことを愛している」というような台詞を聞いたことがありますが、まさに、イエス様だけが【私】を愛してくださるのです。
きょうのみことばは、イエス様にとって一番長い1日の出来事でした。不正な裁判から始まり、人々からあざけられ、侮辱され、十字架を担い、そして、亡くなられます。イエス様は、ご自分の最期の言い表すことができない、苦しみをご存知であったにも関わらず、それをお受けになられたのです。イエス様は、ゲッセマネの園で、「深く恐れ、悶え始め、弟子たちに『わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである。ここにいて、目を覚ましていなさい』」(マルコ14・33〜34)と言われるほど、人として苦しまれました。その苦しみがきょうのみことばで現実なものとなったのです。
ユダヤ人の最高法院全体は、イエス様を縛ってピラトの所に引き渡しに行きます。この中にある「縛って」という言葉は、凶悪犯への対応でした。イエス様は、同胞であるユダヤ人たちから異邦人であるピラトに引き渡される時に、【凶悪犯】として扱われていたのです。ピラトは、イエス様に「お前がユダヤ人の王か」と尋ねます。きょうのみことばの中には、イエス様ご自身が「私が王である」とは一言も言われませんが、周りの人の口を通してイエス様が「ユダヤ人の王」であり、「イスラエルの王」であり「神の子」であると伝えています。ユダヤ人たちは、イエス様を否定し、あざけりながら、知らないうちにイエス様のことを「王」であると言っているのでした。
イエス様は、弟子たちにご自分の『受難の予告』をたびたび、お話になられました。マルコ福音書では、「人の子が多くの苦しみを受け、長老や、祭司長や、律法学者たちに排斥され、殺され、そして3日の後に復活する。」(マルコ8・31、9・31、10・33)ということを伝え、特に最後の10章には、もっと詳しく、「……彼らは人の子に死刑を宣告し、そして異邦人に渡す。異邦人は人の子をあざけり、つばを吐きかけ、鞭打ち、ついに殺してしまう。しかし、人の子は3日の後に復活する」と書いてあります。きょうのみことばは、このマルコ福音書の短い10章33節に書かれてあることが、こと細かく私たちに伝えているのです。
残念なことにイエス様から、3度も『受難の予告』を聞かされた弟子たちは、逃げ去りイエス様の【受難】を知ることはできませんでした。しかし、私たちは、福音書を通してイエス様の【受難】を黙想することができます。同胞である最高法院の人たち、今まで病を癒し、パンを与え、「メシア」ではないかとまで思ったユダヤの民衆、さらに異邦人であるピラトや兵士たちから、あざけられ、つばを吐きかけられ、鞭打ちたれ、ついに殺れる、イエス様の苦しみの場に「【私自身】がいたとしたら」と思うとき、私たちは、イエス様の【受難】を深く黙想することができることでしょう。もし、私たちの弱さや傲慢さなどの罪がイエス様への侮辱として、イエス様の受難をいっそう苦しめていたとしたら、と思うとき、私たちは、ユダヤ人たちやローマ人たちが犯した罪と自分の罪と置き換えることができるのではないでしょうか。
イエス様の十字架の左右には、強盗の十字架がかけられていました。イエス様は、最期まで罪人とともにおられます。私たちは、イエス様の【受難】を思うとき、イエス様の苦しみだけに目を留めています。しかし、この【受難】を通して「このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである」(ヨハネ12・27)というイエス様の言葉を思い出すとき私たちは、イエス様の【いつくしみの愛】に【感謝】の思いで溢れ出して来るのではないでしょうか。
きょうのみことばの中で百人隊長は、「まことに、この方は神の子であった。」と言います。彼は、イエス様の長い1日を通して、心からそう思ったのです。私たちは、彼のことばに救われ、希望を持ち、イエス様の【いつくしみの愛】を感じることができることでしょう。復活前の最後の週となって改めてイエス様の【受難】だけではなく、その中にある【いつくしみの愛】を黙想することができるといいですね。
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