四旬節第5主日 (ヨハネ12・20〜33)
- 2015/03/20
- 07:30
おん父の【栄光】という種
私たちは、「主の祈り」「マリアの祈り」そして、「栄唱」を度々唱えます。この中の「栄唱」は「栄光は、父と子と聖霊に、始めのように今もいつも、世々に至まで。アーメン。」いう祈りです。この祈りは、「三位一体の栄光が、天地を創造した時から、いま、私たちが行きている生活をしている現在を経て、未来に至まで続いている」と言ってもいいでしょう。では、この栄光とは何なのでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様がどのようなご受難と死そして、復活するかを示された箇所です。みことばは、何人かのギリシア人がイエス様を訪ねて来たところから始まっています。このギリシア人は、ユダヤ教に改宗した人たちのようです。彼らは、イエス様の噂を聞きつけ、興味を持ちイエス様を訪ねて来たのでしょう。彼らがどのような話をしに来たのかは、福音書には書かれていません。ただ、イエス様は、彼らが来た時に「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われています。このみことばは、イエス様の教えがユダヤ人たちに留まらず、全世界に向けて広がって行ったと言うことにもなりますし、イエス様のご受難の時が来たと言うことにもとれます。
イエス様は、『よき牧者』の箇所で「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もある。わたしは、その羊たちをも導かなければならない。彼らもわたしの声を聞き分ける。」(ヨハネ10・16)と言われています。イエス様は、ギリシア人の来訪が、ご公現の時に、東方の博士の来訪によって、全世界へご自分を示されたように(マタイ2・1〜12)、「囲いに入っていない他の羊」にも示され、福音宣教がなされると言うことを伝えておられるのはないでしょうか。
次に、イエス様の「ご受難と復活の時」という意味では、イエス様が言われる「もし、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは、一粒のままである。しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ。」という箇所で表されているのでのはないでしょうか。この有名な「一粒の麦」の箇所は、次に出て来る「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」という箇所から、私たちへのイエス様の勧めのように思えます。しかし、この「一粒の麦」は、イエス様ご自身のことを指して言われているのではないでしょうか。イエス様は、まず、ご自分が私たちのために地に落ちて死ぬことによって、豊かな実りを私たちに与えるということを言われているようにも思えます。
イエス様は、「今、わたしの心はかき乱されている。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。父よ、み名の栄光を現してください」と言われます。この箇所は、あのゲッセマネの園でイエス様がおん父に祈られた「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨が行われますように」(ルカ22・42、マタイ26・39)を思い起こさせます。このイエス様の言葉は、イエス様の人間としての苦しみを表していると言ってもいいでしょう。ヘブライ書には、「キリストは、この世におられたとき、自分を死から救うことのおできになる方に、大きな叫び声と涙を持って、祈りと願いをささげました。」(ヘブライ5・7)とあります。「今、わたしの心はかき乱されている。」という箇所は、人であるイエス様の心からの叫びなのです。
しかし、イエス様は、おん父への従順によってこれから起こるであろう、「受難と復活」を「父よ、み名の栄光を現してください」と言われてお受けになられました。私たちたちは、【栄光】と聞く時に、きらびやかなイメージが浮かぶのではないでしょうか。しかし、イエス様が言われる【栄光】は、ご自分の「受難と死」を経なければ「復活」はないと言うことを意味していると言ってもいいでしょう。そのように考えますと、私たちが唱えている『栄唱』は、イエス様の「死と復活」が創造の始めから今、そして、未来に向けて、まるで螺旋(らせん)のように繰り返されている、という祈りとも言えます。
イエス様は、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ように私たちの所に来られました。それは、おん父への従順であり、私たち1人ひとりを豊かにするためであり、さらに、すべての人をご自分のもとに引き寄せるためでもあるのです。私たちは、生きている中でたくさんの「苦しみ」を頂きます。弱い私たちは、その度にイエス様に「助けて!!」と叫んでいます。しかし、私たちがイエス様と共に復活をするには、その「苦しみ」も必要なことではないでしょうか。私たちは、その苦しみの先には、【復活の栄光】があるという【希望】をもって歩んで行けたらいいですね。
私たちは、「主の祈り」「マリアの祈り」そして、「栄唱」を度々唱えます。この中の「栄唱」は「栄光は、父と子と聖霊に、始めのように今もいつも、世々に至まで。アーメン。」いう祈りです。この祈りは、「三位一体の栄光が、天地を創造した時から、いま、私たちが行きている生活をしている現在を経て、未来に至まで続いている」と言ってもいいでしょう。では、この栄光とは何なのでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様がどのようなご受難と死そして、復活するかを示された箇所です。みことばは、何人かのギリシア人がイエス様を訪ねて来たところから始まっています。このギリシア人は、ユダヤ教に改宗した人たちのようです。彼らは、イエス様の噂を聞きつけ、興味を持ちイエス様を訪ねて来たのでしょう。彼らがどのような話をしに来たのかは、福音書には書かれていません。ただ、イエス様は、彼らが来た時に「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われています。このみことばは、イエス様の教えがユダヤ人たちに留まらず、全世界に向けて広がって行ったと言うことにもなりますし、イエス様のご受難の時が来たと言うことにもとれます。
イエス様は、『よき牧者』の箇所で「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もある。わたしは、その羊たちをも導かなければならない。彼らもわたしの声を聞き分ける。」(ヨハネ10・16)と言われています。イエス様は、ギリシア人の来訪が、ご公現の時に、東方の博士の来訪によって、全世界へご自分を示されたように(マタイ2・1〜12)、「囲いに入っていない他の羊」にも示され、福音宣教がなされると言うことを伝えておられるのはないでしょうか。
次に、イエス様の「ご受難と復活の時」という意味では、イエス様が言われる「もし、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは、一粒のままである。しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ。」という箇所で表されているのでのはないでしょうか。この有名な「一粒の麦」の箇所は、次に出て来る「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」という箇所から、私たちへのイエス様の勧めのように思えます。しかし、この「一粒の麦」は、イエス様ご自身のことを指して言われているのではないでしょうか。イエス様は、まず、ご自分が私たちのために地に落ちて死ぬことによって、豊かな実りを私たちに与えるということを言われているようにも思えます。
イエス様は、「今、わたしの心はかき乱されている。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。父よ、み名の栄光を現してください」と言われます。この箇所は、あのゲッセマネの園でイエス様がおん父に祈られた「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨が行われますように」(ルカ22・42、マタイ26・39)を思い起こさせます。このイエス様の言葉は、イエス様の人間としての苦しみを表していると言ってもいいでしょう。ヘブライ書には、「キリストは、この世におられたとき、自分を死から救うことのおできになる方に、大きな叫び声と涙を持って、祈りと願いをささげました。」(ヘブライ5・7)とあります。「今、わたしの心はかき乱されている。」という箇所は、人であるイエス様の心からの叫びなのです。
しかし、イエス様は、おん父への従順によってこれから起こるであろう、「受難と復活」を「父よ、み名の栄光を現してください」と言われてお受けになられました。私たちたちは、【栄光】と聞く時に、きらびやかなイメージが浮かぶのではないでしょうか。しかし、イエス様が言われる【栄光】は、ご自分の「受難と死」を経なければ「復活」はないと言うことを意味していると言ってもいいでしょう。そのように考えますと、私たちが唱えている『栄唱』は、イエス様の「死と復活」が創造の始めから今、そして、未来に向けて、まるで螺旋(らせん)のように繰り返されている、という祈りとも言えます。
イエス様は、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ように私たちの所に来られました。それは、おん父への従順であり、私たち1人ひとりを豊かにするためであり、さらに、すべての人をご自分のもとに引き寄せるためでもあるのです。私たちは、生きている中でたくさんの「苦しみ」を頂きます。弱い私たちは、その度にイエス様に「助けて!!」と叫んでいます。しかし、私たちがイエス様と共に復活をするには、その「苦しみ」も必要なことではないでしょうか。私たちは、その苦しみの先には、【復活の栄光】があるという【希望】をもって歩んで行けたらいいですね。
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