四旬節第4主日 (ヨハネ3・14〜21)
- 2015/03/13
- 08:02
「祈っているよ」という種
私たちは、友人や知人が困っている時、病気の時、頼み事をされた時などに、「お祈りしますね。」と言ったり、または、私たち自身が彼らから、「お祈りします」と言われたりしたことがあるのではないでしょうか。私たちは、この「お祈りします」と言われた時、心から喜んだり、安心したりするのではないでしょうか。この「祈ります」という言葉は、「愛しています」という言葉に置き換えることができると言ってもいいでしょう。ただ、私たちは「愛しています」と言われると嬉しいのですが、意外と違和感を覚えたり、面を食らったりしてしまいます。
きょうのみことばは、ファリサイ派のニコデモと言う人が、日が暮れてイエス様の所を訪ねて来て、話をしている場面です。彼は、ファリサイ派の中にあってイエス様に興味を持ち、イエス様の方に心が傾いていった1人ではないでしょうか(ヨハネ19・39)。そのため、彼は、周りのファリサイ派の人たちの目を気にして夜になって、イエス様の所を訪ねます。イエス様は、彼との話の中で「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と言われます。
私たちは、イエス様に比べると、おん父に対して、“天の上のお方”“畏れ多い方”というイメージを持っているのではないでしょうか。たぶん、ニコデモは、私たち以上におん父に対してそう思っていたとのかもしれません。その雲の上のお方のようなおん父が私たちをしかも、独り子を与えてくださるほど愛してくださっている、と言われているのです。
さらに、イエス様は、「独り子を信じる者が1人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と続けらます。ファリサイ派の人たちは、たくさんある律法の中でどの律法が大切なのか、どの律法を守ると「永遠の命を得る」ことができるのかと言うことを気にしていました(マタイ19・16、マルコ10・17〜22、ルカ10・25、18・18〜23)。ちなみに、聖書の中に、「永遠の命」という言葉は、45回出てきます。その中でも、ヨハネ福音書には、17回、ヨハネの手紙の中にも6回出て来ています。そのためか、ヨハネ福音書は、「永遠の命の福音書」と呼ばれているようです。
イエス様は、ユダヤ人たちが気にしている「永遠の命」を得るためにどのようにすればいいのかということをニコデモに教えられます。それは、「独り子を信じる」ということでした。この「信じる」というのは、私たちを「愛して」くださるおん父への応答と言ってもいいでしょう。私たちは、おん父が私たちの所に遣わされた「独り子、イエス様を信じる」だけでいいのです。
しかし、残念なことにイエス様を「信じることができない人」もいます。みことばには、イエス様を「信じない者はすでに裁かれている」と伝えます。このことは、私たちにとって心が痛くなるような言葉ではないでしょうか。この「裁く」という言葉の中には、「分裂する」という意味があるようです。イエス様は、「信じない者」に対して、ご自分が裁かれるのでありません。そうではなく、「信じない者」がご自分と分裂して自分自身を裁いているのです、ということを伝えておられるのです。
私たちは、ときどき、イエス様から離れてしまうことがあります。そのような時、私たちの心はどのような気持ちでしょう。きっと、寂しく、後ろめたく、ますます、イエス様から離れてしまっている自分を赦せないと思うのではないでしょうか。パウロは、「かつては、肉の欲望のままに振る舞っていました。……神は憐れみに満ちておられ、わたしたちを愛してくださったその大いなる愛によって、咎の故に死んだ者であったわたしたちを、キリストともに生かしてくださいました。」(エフェソ2・3〜4)と伝えています。パウロは、ここでおん父の愛の豊かさ、素晴らしさを私たちに教えてくれていると言ってもいいでしょう。パウロがエフェソの教会の人たちに宛てた手紙は、私たちの罪への傾き、弱さ故に犯してしまう罪、もう救われないという絶望感に陥ったときでも、おん父が私たちを愛してくださって、さらに、ご自分の子である、イエス様と共に復活させてくださるということを伝えているのではないでしょうか。
私たちは、洗礼の恵みを頂く時、ミサの時に『信仰宣言』を唱えています。この『信仰宣言』は、「わたしは三位一体の主なる神を信じます。」と誓う言葉です。私たちは、きょうのみことばを通して、おん父が私たちをどれほど愛してくださっておられるのか、その愛に私たちがどのように応えればいいのかと言うことを黙想することができることでしょう。イエス様は、私たちがご自分から離れていて苦しい時に「早く私のもとに戻って来るように、祈っているよ。」と言われているのではないでしょうか。
私たちは、友人や知人が困っている時、病気の時、頼み事をされた時などに、「お祈りしますね。」と言ったり、または、私たち自身が彼らから、「お祈りします」と言われたりしたことがあるのではないでしょうか。私たちは、この「お祈りします」と言われた時、心から喜んだり、安心したりするのではないでしょうか。この「祈ります」という言葉は、「愛しています」という言葉に置き換えることができると言ってもいいでしょう。ただ、私たちは「愛しています」と言われると嬉しいのですが、意外と違和感を覚えたり、面を食らったりしてしまいます。
きょうのみことばは、ファリサイ派のニコデモと言う人が、日が暮れてイエス様の所を訪ねて来て、話をしている場面です。彼は、ファリサイ派の中にあってイエス様に興味を持ち、イエス様の方に心が傾いていった1人ではないでしょうか(ヨハネ19・39)。そのため、彼は、周りのファリサイ派の人たちの目を気にして夜になって、イエス様の所を訪ねます。イエス様は、彼との話の中で「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と言われます。
私たちは、イエス様に比べると、おん父に対して、“天の上のお方”“畏れ多い方”というイメージを持っているのではないでしょうか。たぶん、ニコデモは、私たち以上におん父に対してそう思っていたとのかもしれません。その雲の上のお方のようなおん父が私たちをしかも、独り子を与えてくださるほど愛してくださっている、と言われているのです。
さらに、イエス様は、「独り子を信じる者が1人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と続けらます。ファリサイ派の人たちは、たくさんある律法の中でどの律法が大切なのか、どの律法を守ると「永遠の命を得る」ことができるのかと言うことを気にしていました(マタイ19・16、マルコ10・17〜22、ルカ10・25、18・18〜23)。ちなみに、聖書の中に、「永遠の命」という言葉は、45回出てきます。その中でも、ヨハネ福音書には、17回、ヨハネの手紙の中にも6回出て来ています。そのためか、ヨハネ福音書は、「永遠の命の福音書」と呼ばれているようです。
イエス様は、ユダヤ人たちが気にしている「永遠の命」を得るためにどのようにすればいいのかということをニコデモに教えられます。それは、「独り子を信じる」ということでした。この「信じる」というのは、私たちを「愛して」くださるおん父への応答と言ってもいいでしょう。私たちは、おん父が私たちの所に遣わされた「独り子、イエス様を信じる」だけでいいのです。
しかし、残念なことにイエス様を「信じることができない人」もいます。みことばには、イエス様を「信じない者はすでに裁かれている」と伝えます。このことは、私たちにとって心が痛くなるような言葉ではないでしょうか。この「裁く」という言葉の中には、「分裂する」という意味があるようです。イエス様は、「信じない者」に対して、ご自分が裁かれるのでありません。そうではなく、「信じない者」がご自分と分裂して自分自身を裁いているのです、ということを伝えておられるのです。
私たちは、ときどき、イエス様から離れてしまうことがあります。そのような時、私たちの心はどのような気持ちでしょう。きっと、寂しく、後ろめたく、ますます、イエス様から離れてしまっている自分を赦せないと思うのではないでしょうか。パウロは、「かつては、肉の欲望のままに振る舞っていました。……神は憐れみに満ちておられ、わたしたちを愛してくださったその大いなる愛によって、咎の故に死んだ者であったわたしたちを、キリストともに生かしてくださいました。」(エフェソ2・3〜4)と伝えています。パウロは、ここでおん父の愛の豊かさ、素晴らしさを私たちに教えてくれていると言ってもいいでしょう。パウロがエフェソの教会の人たちに宛てた手紙は、私たちの罪への傾き、弱さ故に犯してしまう罪、もう救われないという絶望感に陥ったときでも、おん父が私たちを愛してくださって、さらに、ご自分の子である、イエス様と共に復活させてくださるということを伝えているのではないでしょうか。
私たちは、洗礼の恵みを頂く時、ミサの時に『信仰宣言』を唱えています。この『信仰宣言』は、「わたしは三位一体の主なる神を信じます。」と誓う言葉です。私たちは、きょうのみことばを通して、おん父が私たちをどれほど愛してくださっておられるのか、その愛に私たちがどのように応えればいいのかと言うことを黙想することができることでしょう。イエス様は、私たちがご自分から離れていて苦しい時に「早く私のもとに戻って来るように、祈っているよ。」と言われているのではないでしょうか。
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