四旬節第3主日 (ヨハネ2・13〜25)
- 2015/03/07
- 09:03
私の中の神殿を見つめ直すという種
典礼は、四旬節第3主日を迎えます。マラソンに置き換えると、折り返し地点に差し掛かったとも言えるでしょうか。『教会の祈り』の中にある「始めの祈り」の交唱は、「今日神の声を聞くなら、神に心をとじてはならない」となっています。きょうのみことばの中で、イエス様は、私たちにどのようなことをお話しになっているのでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が神殿の境内で商売をしている人を追い出す場面です。エルサレムの神殿の境内では、神に生け贄を捧げるための、牛、羊、鳩を売っていたようです。それは、神殿に来る人の便利のためでした。また、神殿内で使用されるお金は、イスラエルの貨幣を使わなければならないため、通常使っているローマの貨幣を使うことができなかったのです。神殿の境内には、神殿に来る人のために商売をしている人がいたようです。イエス様は、そのような彼らに向かって「これらの物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われたのでした。
しかし、それは、彼らに言われたと同時に、神殿を司っている祭司長や律法学者に対して言った言葉でもあるのかもしれません。彼らは、神殿内での商売を認めることで彼らから、売り上げの何パーセントかをもらっていたようです。イエス様は、そのことを指摘したのではないでしょうか。四字熟語の中に「本末転倒」という言葉があります。この意味は、「物事の根本的なことと、そうでないことを取り違えること」という意味です。この神殿の出来事の中には、いくつかの【本末転倒】が当てはまるようです。まず、祈りの場で商売をすることです。エルサレムの神殿では、いくつかの場所に分けられていて、彼らが商売をしている「境内」というのは、異邦人が祈りをする場所でした。このことは、異邦人が主なる神に祈ることを妨げていることになるのです。
次に、神殿を管理しているユダヤ人に対しての【本末転倒】です。それは、彼らが私腹を肥やしていることです。本来ですと、彼らは、主なる神に対して祈り、また、人々に律法を教えるという務めがありました。しかし、彼らは、神殿に祈りに来る人のために便利さを提供する商売人を神殿の境内で商いをさせる代わりに、自分たちの私腹を肥やしていたのでした。
最後に、神殿に生け贄を捧げるユダヤ人に対してでした。人々は、イスラエルの方々からエルサレムに上って来ていました。本来ですと、生け贄のための動物を自分たちで持参して来るというのが慣習だったのです。創世記の中にあるアブラハムがイサクを神に捧げる場面を思い出してみましょう。その場面でイサクは、アブラハムに「火と蒔きはありますが、焼き尽くす捧げ物の小羊はどこにいるのですか」(創世記22・7)と言っています。イエス様は、これらの【本末転倒】を指摘していると言ってもいいでしょう。ときとして、私たちの日常の生活の中にもこのような【本末転倒】が起こっているのかもしれません。
イエス様は、「こんなことをするからには、どんな徴(しるし)を見せてくれるのか」という質問をするユダヤ人たちに対して、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で立て直してみせよう」と言われます。神殿を司る主な人々や神殿に来るユダヤ人たちは、境内での商売が悪いことだと知りながら、自分たちの便利のため、私腹を肥やすために黙認していたのです。そような罪への意識がいつの間にか麻痺し、当たり前のように思うようになってきたのです。イエス様は、彼らのそのような【罪意識の麻痺】に対して、「あなたたちが、そのように罪を犯し続けていると大切な神殿が壊れてしまいますよ。」と言われているのではないでしょうか。
さて、イエス様のこの「この神殿を壊してみよ。」というみことばは、私たちの中に“回心”を促しているような気がいたします。パウロは、「あなた方は知らないのですか。あなた方は神の住まいであり、神の霊があなた方の中に住んでおられることを。もし、神の住まいを壊す者があれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の住まいは聖なるものであり、あなた方はその住まいなのです。」(1コリント3・16〜17)と伝えています。もう一度、私たちの生活を振り返ってみましょう。最初は小さな罪だったものが、知らないうちに麻痺して、大きなものになっていないでしょうか。ミサの中の司祭は、集会祈願で「あなたに立ち返り、信仰と愛を深めることができますように。」と祈ります。私たちは、おん父に立ち返るために、いま一度、私たちの中にある神殿を見つめ直すのもいいかもしれません。もし、私たちの神殿が壊れかけいるところがあれば、イエス様が言われる「三日で立て直してみせよう」というみことばに信頼して、立て直してください、と願ってみるといいかもしれません。きっと、イエス様は、私たちのその傷を治してくださることでしょう。
典礼は、四旬節第3主日を迎えます。マラソンに置き換えると、折り返し地点に差し掛かったとも言えるでしょうか。『教会の祈り』の中にある「始めの祈り」の交唱は、「今日神の声を聞くなら、神に心をとじてはならない」となっています。きょうのみことばの中で、イエス様は、私たちにどのようなことをお話しになっているのでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が神殿の境内で商売をしている人を追い出す場面です。エルサレムの神殿の境内では、神に生け贄を捧げるための、牛、羊、鳩を売っていたようです。それは、神殿に来る人の便利のためでした。また、神殿内で使用されるお金は、イスラエルの貨幣を使わなければならないため、通常使っているローマの貨幣を使うことができなかったのです。神殿の境内には、神殿に来る人のために商売をしている人がいたようです。イエス様は、そのような彼らに向かって「これらの物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われたのでした。
しかし、それは、彼らに言われたと同時に、神殿を司っている祭司長や律法学者に対して言った言葉でもあるのかもしれません。彼らは、神殿内での商売を認めることで彼らから、売り上げの何パーセントかをもらっていたようです。イエス様は、そのことを指摘したのではないでしょうか。四字熟語の中に「本末転倒」という言葉があります。この意味は、「物事の根本的なことと、そうでないことを取り違えること」という意味です。この神殿の出来事の中には、いくつかの【本末転倒】が当てはまるようです。まず、祈りの場で商売をすることです。エルサレムの神殿では、いくつかの場所に分けられていて、彼らが商売をしている「境内」というのは、異邦人が祈りをする場所でした。このことは、異邦人が主なる神に祈ることを妨げていることになるのです。
次に、神殿を管理しているユダヤ人に対しての【本末転倒】です。それは、彼らが私腹を肥やしていることです。本来ですと、彼らは、主なる神に対して祈り、また、人々に律法を教えるという務めがありました。しかし、彼らは、神殿に祈りに来る人のために便利さを提供する商売人を神殿の境内で商いをさせる代わりに、自分たちの私腹を肥やしていたのでした。
最後に、神殿に生け贄を捧げるユダヤ人に対してでした。人々は、イスラエルの方々からエルサレムに上って来ていました。本来ですと、生け贄のための動物を自分たちで持参して来るというのが慣習だったのです。創世記の中にあるアブラハムがイサクを神に捧げる場面を思い出してみましょう。その場面でイサクは、アブラハムに「火と蒔きはありますが、焼き尽くす捧げ物の小羊はどこにいるのですか」(創世記22・7)と言っています。イエス様は、これらの【本末転倒】を指摘していると言ってもいいでしょう。ときとして、私たちの日常の生活の中にもこのような【本末転倒】が起こっているのかもしれません。
イエス様は、「こんなことをするからには、どんな徴(しるし)を見せてくれるのか」という質問をするユダヤ人たちに対して、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で立て直してみせよう」と言われます。神殿を司る主な人々や神殿に来るユダヤ人たちは、境内での商売が悪いことだと知りながら、自分たちの便利のため、私腹を肥やすために黙認していたのです。そような罪への意識がいつの間にか麻痺し、当たり前のように思うようになってきたのです。イエス様は、彼らのそのような【罪意識の麻痺】に対して、「あなたたちが、そのように罪を犯し続けていると大切な神殿が壊れてしまいますよ。」と言われているのではないでしょうか。
さて、イエス様のこの「この神殿を壊してみよ。」というみことばは、私たちの中に“回心”を促しているような気がいたします。パウロは、「あなた方は知らないのですか。あなた方は神の住まいであり、神の霊があなた方の中に住んでおられることを。もし、神の住まいを壊す者があれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の住まいは聖なるものであり、あなた方はその住まいなのです。」(1コリント3・16〜17)と伝えています。もう一度、私たちの生活を振り返ってみましょう。最初は小さな罪だったものが、知らないうちに麻痺して、大きなものになっていないでしょうか。ミサの中の司祭は、集会祈願で「あなたに立ち返り、信仰と愛を深めることができますように。」と祈ります。私たちは、おん父に立ち返るために、いま一度、私たちの中にある神殿を見つめ直すのもいいかもしれません。もし、私たちの神殿が壊れかけいるところがあれば、イエス様が言われる「三日で立て直してみせよう」というみことばに信頼して、立て直してください、と願ってみるといいかもしれません。きっと、イエス様は、私たちのその傷を治してくださることでしょう。
スポンサーサイト