年間第29主日 (マタイ22・15〜21)
- 2014/10/17
- 07:33
ライバル心の有効活用という種
私たちは、時々自分と周りの人を比べてしまうことがあります。そのこと自体は、別に間違いではありません。それは、相手を“ライバル”として目標にし、頑張ろうとするエネルギーになります。しかし、良い方向に転じるのではなく、逆になってしまうとそれが、“妬み”となってしまいます。最初は、「ああ、いいな、羨ましいな」という軽い気持ちが、やっかみになり、“妬み”になっていくのです。そこから、イジメやときには、もっと恐ろしいことにも発展しかねません。
きょうのみことばは、ファリサイ派の人たちと、ヘロデ党の人たちが手を組んで、お互いが敵視しているイエス様を陥れようと企むところから始まります。ファリサイ派の人たちは、自分たちが守ってきた律法を神殿や会堂で人々に教えていました。しかし、人々は、ファリサイ派の人々の教えよりも権威を持って話されるイエス様の教えに耳を傾け(マタイ7・28〜29)、イエス様がなさる様々な奇跡によって自分たちの癒しを求めていました。さらに、人々は、イエス様こそ自分たちが受けている圧政から解放してくださる「メシア」であると思っていたのです。
このように人々がイエス様に傾いている様子を見ているファリサイ派の人々は、徐々にイエス様を敵視するようになったのでした。さらに、彼らは、洗礼者ヨハネの問題を機に散々イエス様から指摘された直後だったのです。ファリサイ派の人々は、これまで培ってきた教えやプライドを、イエス様によって傷つけられたと思ったのでしょう。このようなことから彼らの心に“妬み”の心芽生え始めたと言ってもいいかもしれません。ファリサイ派の人たちは、ローマの傘下にいたヘロデ党のことをあまりよく思っていなかったのですが、イエス様を何とかしようとして、彼らと手を組むことにしたのです。
彼らは、イエス様に「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、また相手によって態度を変えず、誰をもはばからない方であることを知っています。」と言います。彼らが使ったこの言葉は、イエス様の姿そのものでした。彼らは、知ってか知らずか定かではありませんが、イエス様の言葉じりをとらえようと質問をする、前置きとしてこの言葉を口にしたのでした。逆の言い方をすれば、彼らはイエス様がなさっていた日頃の様子を意識して、よく観察していたと言ってもいいしょう。
その後、彼らは、「ローマ皇帝に人頭税を納めることは、許されているのでしょうか、いないのでしょうか。」という意地悪な質問をするのです。もし、イエス様が人頭税を納めると言われると、ローマの圧政に苦しんでいるユダヤ人を裏切ることになりますし、人頭税を納めないと答えられると、ローマ皇帝への反逆ということになるのです。ファリサイ派の人々は、イエス様がどちらを答えても、窮地に陥る結果と知って、ヘロデ党の人たちと一緒にイエス様に質問をしたのでした。
しかし、イエス様のお答えは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というどちらでもなかったのです。イエス様は、ファリサイ派の人々がご自身に質問をする前にした「……あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、……」という言葉をしっかりと証しされながら答えられたのです。人は、嫉妬心を抱く時、“負のエネルギー”を使っているのではないでしょうか。このエネルギーは、とても強力なもので、相手に対して大変なダメージを負わせてしまいます。逆に、このエネルギーを良い方向へ用いると、嫉妬心ではなく憧れや尊敬という愛の心へと向かうのではないでしょうか。ファリサイ派の人々は、このエネルギーの使い方を間違ってしまったのです。その中には、彼らの高すぎるプライドがあったからなのかもしれません。
パウロは、「神に愛されている兄弟のみなさん、わたしたちは、あなた方が選ばれた者であると、はっきり分かりました。」(1テサロニケ1・4)と伝えています。パウロは、ここで人々がすでに、「神に愛されている。」「神に選ばれた者」ということを伝えています。これは、私たち一人ひとりに対しても当てはまるみことばでないでしょうか。私たちは、相手のすばらしいところを嫉妬する気持ちを抱くことなど起こす必要がないくらい、「神に愛されている。」「神に選ばれた者」なのです。それは、私たち自身と同じように相手も「神に愛されている。」「神に選ばれた者」とも言えるのです。イザヤは、「わたしが主である。ほかにはいない。……お前はわたしを知らないが、わたしはお前に力を帯びさせる。……。」(イザヤ45・5)と言っています。おん父は、私たちが知らなくても私たちを愛されているのです。きょうのみことばは、私たちがこのおん父の愛に包まれていることに気づくことができるすばらしいプレゼントと言ってもいいのではないでしょうか。
私たちは、時々自分と周りの人を比べてしまうことがあります。そのこと自体は、別に間違いではありません。それは、相手を“ライバル”として目標にし、頑張ろうとするエネルギーになります。しかし、良い方向に転じるのではなく、逆になってしまうとそれが、“妬み”となってしまいます。最初は、「ああ、いいな、羨ましいな」という軽い気持ちが、やっかみになり、“妬み”になっていくのです。そこから、イジメやときには、もっと恐ろしいことにも発展しかねません。
きょうのみことばは、ファリサイ派の人たちと、ヘロデ党の人たちが手を組んで、お互いが敵視しているイエス様を陥れようと企むところから始まります。ファリサイ派の人たちは、自分たちが守ってきた律法を神殿や会堂で人々に教えていました。しかし、人々は、ファリサイ派の人々の教えよりも権威を持って話されるイエス様の教えに耳を傾け(マタイ7・28〜29)、イエス様がなさる様々な奇跡によって自分たちの癒しを求めていました。さらに、人々は、イエス様こそ自分たちが受けている圧政から解放してくださる「メシア」であると思っていたのです。
このように人々がイエス様に傾いている様子を見ているファリサイ派の人々は、徐々にイエス様を敵視するようになったのでした。さらに、彼らは、洗礼者ヨハネの問題を機に散々イエス様から指摘された直後だったのです。ファリサイ派の人々は、これまで培ってきた教えやプライドを、イエス様によって傷つけられたと思ったのでしょう。このようなことから彼らの心に“妬み”の心芽生え始めたと言ってもいいかもしれません。ファリサイ派の人たちは、ローマの傘下にいたヘロデ党のことをあまりよく思っていなかったのですが、イエス様を何とかしようとして、彼らと手を組むことにしたのです。
彼らは、イエス様に「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、また相手によって態度を変えず、誰をもはばからない方であることを知っています。」と言います。彼らが使ったこの言葉は、イエス様の姿そのものでした。彼らは、知ってか知らずか定かではありませんが、イエス様の言葉じりをとらえようと質問をする、前置きとしてこの言葉を口にしたのでした。逆の言い方をすれば、彼らはイエス様がなさっていた日頃の様子を意識して、よく観察していたと言ってもいいしょう。
その後、彼らは、「ローマ皇帝に人頭税を納めることは、許されているのでしょうか、いないのでしょうか。」という意地悪な質問をするのです。もし、イエス様が人頭税を納めると言われると、ローマの圧政に苦しんでいるユダヤ人を裏切ることになりますし、人頭税を納めないと答えられると、ローマ皇帝への反逆ということになるのです。ファリサイ派の人々は、イエス様がどちらを答えても、窮地に陥る結果と知って、ヘロデ党の人たちと一緒にイエス様に質問をしたのでした。
しかし、イエス様のお答えは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というどちらでもなかったのです。イエス様は、ファリサイ派の人々がご自身に質問をする前にした「……あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、……」という言葉をしっかりと証しされながら答えられたのです。人は、嫉妬心を抱く時、“負のエネルギー”を使っているのではないでしょうか。このエネルギーは、とても強力なもので、相手に対して大変なダメージを負わせてしまいます。逆に、このエネルギーを良い方向へ用いると、嫉妬心ではなく憧れや尊敬という愛の心へと向かうのではないでしょうか。ファリサイ派の人々は、このエネルギーの使い方を間違ってしまったのです。その中には、彼らの高すぎるプライドがあったからなのかもしれません。
パウロは、「神に愛されている兄弟のみなさん、わたしたちは、あなた方が選ばれた者であると、はっきり分かりました。」(1テサロニケ1・4)と伝えています。パウロは、ここで人々がすでに、「神に愛されている。」「神に選ばれた者」ということを伝えています。これは、私たち一人ひとりに対しても当てはまるみことばでないでしょうか。私たちは、相手のすばらしいところを嫉妬する気持ちを抱くことなど起こす必要がないくらい、「神に愛されている。」「神に選ばれた者」なのです。それは、私たち自身と同じように相手も「神に愛されている。」「神に選ばれた者」とも言えるのです。イザヤは、「わたしが主である。ほかにはいない。……お前はわたしを知らないが、わたしはお前に力を帯びさせる。……。」(イザヤ45・5)と言っています。おん父は、私たちが知らなくても私たちを愛されているのです。きょうのみことばは、私たちがこのおん父の愛に包まれていることに気づくことができるすばらしいプレゼントと言ってもいいのではないでしょうか。
スポンサーサイト