四旬節第1主日(マルコ1・12〜15)
- 2021/02/19
- 08:27
「荒れ野」という種
四旬節に入り、司祭の祭服の色が紫に変わり、祭壇に飾られた花もかなり質素な彩りになっています。これから、主の復活を迎える準備をイエス様とともに黙想し、日々を歩んでゆけたら良いですね。
きょうのミサで司祭が唱える祈願文の中には、「罪を退け、福音を信じて生きる者となりますように。」(集会祈願)、「罪に陥ることがあっても見捨てることなく、ひとり子イエスによって救いの道を備えてくださいました。」(共同祈願)、「キリストのからだに結ばれたわたしたちを聖霊で満たし、悪への誘惑から守ってください。」(拝領祈願)と、「罪」「悪への誘惑」から「救い」「守り」というような内容になっています。これは、私たちがいかに、罪への傾きがある弱い者であるのかということ、またそれにも勝る、三位一体の神のいつくしみの愛の恵みの深さがあるかということをきょうのミサの中で私たちに気付かせてくださっているのではないでしょうか。みことばと一緒に、私たちの心と行いを振り返る良い機会かもしれません。
きょうのみことばは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、荒れ野でサタンから試みを経て宣教を始められる場面です。マルコ福音者は、他の福音書と比べ、短く、サタンとのやり取りも省略されています。また、何よりもイエス様が洗礼を受けた時に降った【聖霊】によって荒れ野に行く場面は「霊に導かれて」(マタイ、ルカ4・1)に対し「霊はただちにイエスを荒れ野に追いやった」と描かれています。他の福音書は聖霊がイエス様の前を歩み、時には手を引きながらイエス様を荒れ野に導いていく感じがします。しかし、マルコ福音書は、まるで聖霊がイエス様のお尻を叩いて急かすように「さあ、早く荒れ野に行きなさい」と言っているようです。
このことは、イエス様が宣教をする前にサタンの試みに遭うことの必要性と、同時に宣教を始めることへの早急性を表しているのではないでしょうか。イエス様は、神の子でありますから、サタンの試みに遭う必要はないはずですが、ここでは、人の子であるイエス様を表しているようです。ヘブライ書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないような方ではありません。罪を犯さなかった以外は、全てにおいて、わたしたちと同じような試みに遭われたのです。」(ヘブライ5・15)とありますように、イエス様は、私たちが受けるような罪への誘惑、困難、悲しみ、やるせなさ、悔しさなどさまざまな弱さを荒れ野でのサタンの試みによって受けたのではないでしょうか。さらにそこには、野獣も一緒にいたのです。荒れ野には、オオカミやサソリ、ヘビなど人の命を奪うものがたくさんいます。イエス様は、人の子としてサタンの試みだけではなく、それらの野獣の攻撃からも身を守らなければならなかったのです。
荒れ野は、色々な面で人を限界に追いやるのではないでしょうか。日中は暑く、夜になると寒さが襲います。水や食物も豊富とは言えないでしょう。孤独にも耐えなければなりませんし、余計なことも考えてしまうこともあるのではないでしょうか。荒れ野は、本当に【神への信頼】がないと生きていけない場所と言ってもいいでしょう。イエス様は、荒れ野でサタンの試みに遭い、さらに野獣の恐怖に怯えながらも、おん父への信頼、人の弱さや無力さを身をもって感じられ、体験されたのではないでしょうか。しかし、そんな苦しい状況でもイエス様が40日間を耐えられたのは、聖霊とみ使いがイエス様とともにおられ仕えていたからだったのです。
私たちにとって【荒れ野】とはいったいどのようなものなのでしょう。私たちの周りには、パレスチナ地方で見るような【荒れ野】というのは、身近にありません。しかし、私たちは日常の中で罪への傾き、怠惰や妬み、自己主張や権力欲への傾き、エゴから来る罪への誘惑を受けるのではないでしょうか。また、差別やいじめ、悪口や嘲笑など理不尽な扱いなどされることもあるでしょう。時には、心が折れてしまうような辛い体験もすることもあるかもしれません。このような状況がみことばの中に出てくる【荒れ野】と言ってもいいでしょう。イエス様は、私たちの中に入って福音宣教に入る前に、私たちの弱さから来る罪への傾き(サタンの試み)、また、私たちが受ける理不尽な危害(野獣)をお受けになられたのではないでしょうか。そして、聖霊や天使は、私たちの弱さから来る罪への傾きや、周りからの攻撃から私たちを守ってくださっているのです。
イエス様は、40日間のサタンの試みを経た後、ガリラヤへ行かれ「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。イエス様は、私たちが犯す罪、人や社会からの暴力に対して心が折れそうな気持ち、自暴自棄になる気持ちをご存知ですし、私たちの弱さに同情できない方ではありませんし、しかし、それでも私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。イエス様は、私たちの唯一の同伴者としておん父へと導かれるために、私たちに「悔い改め」を呼びかけておられます。私たちは、自分の弱さ、罪への傾きを全てイエス様にお委ねして、おん父へ心を向けることができたらいいですね。
四旬節に入り、司祭の祭服の色が紫に変わり、祭壇に飾られた花もかなり質素な彩りになっています。これから、主の復活を迎える準備をイエス様とともに黙想し、日々を歩んでゆけたら良いですね。
きょうのミサで司祭が唱える祈願文の中には、「罪を退け、福音を信じて生きる者となりますように。」(集会祈願)、「罪に陥ることがあっても見捨てることなく、ひとり子イエスによって救いの道を備えてくださいました。」(共同祈願)、「キリストのからだに結ばれたわたしたちを聖霊で満たし、悪への誘惑から守ってください。」(拝領祈願)と、「罪」「悪への誘惑」から「救い」「守り」というような内容になっています。これは、私たちがいかに、罪への傾きがある弱い者であるのかということ、またそれにも勝る、三位一体の神のいつくしみの愛の恵みの深さがあるかということをきょうのミサの中で私たちに気付かせてくださっているのではないでしょうか。みことばと一緒に、私たちの心と行いを振り返る良い機会かもしれません。
きょうのみことばは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、荒れ野でサタンから試みを経て宣教を始められる場面です。マルコ福音者は、他の福音書と比べ、短く、サタンとのやり取りも省略されています。また、何よりもイエス様が洗礼を受けた時に降った【聖霊】によって荒れ野に行く場面は「霊に導かれて」(マタイ、ルカ4・1)に対し「霊はただちにイエスを荒れ野に追いやった」と描かれています。他の福音書は聖霊がイエス様の前を歩み、時には手を引きながらイエス様を荒れ野に導いていく感じがします。しかし、マルコ福音書は、まるで聖霊がイエス様のお尻を叩いて急かすように「さあ、早く荒れ野に行きなさい」と言っているようです。
このことは、イエス様が宣教をする前にサタンの試みに遭うことの必要性と、同時に宣教を始めることへの早急性を表しているのではないでしょうか。イエス様は、神の子でありますから、サタンの試みに遭う必要はないはずですが、ここでは、人の子であるイエス様を表しているようです。ヘブライ書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないような方ではありません。罪を犯さなかった以外は、全てにおいて、わたしたちと同じような試みに遭われたのです。」(ヘブライ5・15)とありますように、イエス様は、私たちが受けるような罪への誘惑、困難、悲しみ、やるせなさ、悔しさなどさまざまな弱さを荒れ野でのサタンの試みによって受けたのではないでしょうか。さらにそこには、野獣も一緒にいたのです。荒れ野には、オオカミやサソリ、ヘビなど人の命を奪うものがたくさんいます。イエス様は、人の子としてサタンの試みだけではなく、それらの野獣の攻撃からも身を守らなければならなかったのです。
荒れ野は、色々な面で人を限界に追いやるのではないでしょうか。日中は暑く、夜になると寒さが襲います。水や食物も豊富とは言えないでしょう。孤独にも耐えなければなりませんし、余計なことも考えてしまうこともあるのではないでしょうか。荒れ野は、本当に【神への信頼】がないと生きていけない場所と言ってもいいでしょう。イエス様は、荒れ野でサタンの試みに遭い、さらに野獣の恐怖に怯えながらも、おん父への信頼、人の弱さや無力さを身をもって感じられ、体験されたのではないでしょうか。しかし、そんな苦しい状況でもイエス様が40日間を耐えられたのは、聖霊とみ使いがイエス様とともにおられ仕えていたからだったのです。
私たちにとって【荒れ野】とはいったいどのようなものなのでしょう。私たちの周りには、パレスチナ地方で見るような【荒れ野】というのは、身近にありません。しかし、私たちは日常の中で罪への傾き、怠惰や妬み、自己主張や権力欲への傾き、エゴから来る罪への誘惑を受けるのではないでしょうか。また、差別やいじめ、悪口や嘲笑など理不尽な扱いなどされることもあるでしょう。時には、心が折れてしまうような辛い体験もすることもあるかもしれません。このような状況がみことばの中に出てくる【荒れ野】と言ってもいいでしょう。イエス様は、私たちの中に入って福音宣教に入る前に、私たちの弱さから来る罪への傾き(サタンの試み)、また、私たちが受ける理不尽な危害(野獣)をお受けになられたのではないでしょうか。そして、聖霊や天使は、私たちの弱さから来る罪への傾きや、周りからの攻撃から私たちを守ってくださっているのです。
イエス様は、40日間のサタンの試みを経た後、ガリラヤへ行かれ「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。イエス様は、私たちが犯す罪、人や社会からの暴力に対して心が折れそうな気持ち、自暴自棄になる気持ちをご存知ですし、私たちの弱さに同情できない方ではありませんし、しかし、それでも私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。イエス様は、私たちの唯一の同伴者としておん父へと導かれるために、私たちに「悔い改め」を呼びかけておられます。私たちは、自分の弱さ、罪への傾きを全てイエス様にお委ねして、おん父へ心を向けることができたらいいですね。
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