年間第6主日(マルコ1・40〜45)
- 2021/02/12
- 08:57
「清くしてください」という種
私たちは、パウロが「思いあがらないように、わたしの体には一つの刺が与えられました。」(2コリント12・7)言うような、自分の罪深さ、自分の力だけではどうすることもできない欠点があります。私たちは、この【刺】を取り去ってください、と主に願って行けたらいいですね。
きょうのみことばは、重い皮膚病を患った人が癒やされる場面です。イエス様は、方々の会堂に行き、たくさんの病人や悪霊に憑かれた人を癒やされ、その評判はガリラヤ付近の全地域に広まりっていきました。この一人の重い皮膚病を患った人もイエス様のことを耳にしたのでしょう。当時、重い皮膚病を患った人たちは、ユダヤ人社会から隔離され町の外に住まわされていましたし、町の中に入る時には、自分たちが「汚れている、汚れている」と叫ばなければならなかったのです(レビ13・45)。彼にとって、このことはどんなに惨めで、屈辱な思いに耐えなければならなかったことでしょう。町の人は、家の窓を閉め、恐れと軽蔑の目を向け、罵倒を浴びせる人や石を投げる人もいたかもしれません。
きっと、この重い皮膚病を患った人も「汚れている、汚れている」と言ってイエス様の所に近づいて行ったのではないでしょうか。弟子たちは、この人に対してどのように振舞ったでしょう。他のユダヤ人たちと同じようにこの人に対して軽蔑し、避けようとしたのでしょうか。みことばには、弟子たちの様子は書かれていません。もしかしたら、イエス様がどのようにこの人と接するのだろうかと様子を伺っていたのかもしれません。
この人は、イエス様の所にきて「ひざまずき、『お望みなら、わたしを清くすることがおできになります』」と願います。この言葉は、重い皮膚病を患った人がいかに苦しみ、屈辱に耐えてきたのかという「心からの叫び、懇願」だったのです。この人は、自分を清くしてくださる人は、「イエス様しかいない。けれど、自分のように汚れた人がイエス様の所に行っていいのだろうか。」と悩みに悩んだ末、勇気を持って決心しイエス様の所に行ったのでしょう。彼は、立ったままではなく、ひざまずいてへりくだり、イエス様に「清くしてください」と願います。きっとイエス様の顔を見上げることもできず、下を向いていたのかもしれません。この人はどのような思いでイエス様の前にひざまずいていたのでしょう。
イエス様は、「憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り、『わたしは望む、清くなれ』」と言われます。この【憐れみ】というのは、「はらわた」という意味のようで、心の底から出てくるような深い共感と言ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、この人がどのように苦しみ理不尽さに耐え、もがき、人生に失望し、時には自分をも呪うという思いを心の底から感じられます。イエス様は、この人に対してそのように追い込んだ、人々の心や考え、社会の偏見などに対して怒りを覚えたことでしょう。そして、普通の人だったら自分が汚れることを恐れ、罪人に近寄ることも、また、触ることもしないでしょうが、イエス様は、近寄り手を差し伸べ、その人に触ります。もしかしたら、イエス様も身をかがめ、この人を抱き抱え「わたしは望む、清くなれ」と言われたのではないでしょうか。
この人は、イエス様の「わたしは望む、清くなれ」という言葉によって「たちまち」、重い皮膚病が治り、清くなります。彼の今までの苦しみが、潮が引くようにみるみるうちに癒やされ、清くなっていったのです。私は、およそ30数年間「尋常性乾癬」という皮膚病を患って、今も治療をしています。今は、幸い良い薬に恵まれ、ほとんど目立つような乾癬の症状は出ていません。皮膚が赤くなって、かゆみやふけのように皮膚が落ちる鱗屑(りんせつ)や、時には皮膚をかきむしって血が出るという状態でした。そのような自分の肌が、薬で症状が治るという体験は、なんとも言えない喜びでした。きっと、この人も心の底から喜びを感じたことでしょう。
さて、イエス様は、彼に対してきびしく戒め、「誰にも話さないように注意しなさい。」と言われて立ち去らせます。なぜ、イエス様は、きびしく戒められこのような言葉をかけられたのでしょう。それは、人々がイエス様の所に行けばなんでも癒され、治してくださると安易に思い、「おん父の働き、栄光、悪に対する怒り、一人ひとりに対する【憐れみ】」を忘れてしまう傾きを注意されたのでしょう。しかし、この人は、自分の病気が治って、清くなったことの喜びのため、この出来事を言いふらしはじめます。イエス様は、この人の行いをどのように感じられたことでしょう。確かに、自分の皮膚が治ったことを今まで自分を蔑み、毛嫌いしていた人たちに知ってもらいたい、という気持わからないわけでもないでしょうが、同時に、人の「弱さ」も改めて気づかれたのではないでしょうか。
きょうのみことばは、【重い皮膚病】からの癒しでした。しかし、私たちは、目に見える【皮膚病】がないにしても、いくつかの欠点、罪への傾向、悩みや苦しみを持っているのではないでしょうか。イエス様は、そのような私たちを【憐れに】思われ、「わたしは望む、清くなれ」と言ってくださいます。私たちは、イエス様に信頼して「清くしてください」と祈ることができたらいいですね。
私たちは、パウロが「思いあがらないように、わたしの体には一つの刺が与えられました。」(2コリント12・7)言うような、自分の罪深さ、自分の力だけではどうすることもできない欠点があります。私たちは、この【刺】を取り去ってください、と主に願って行けたらいいですね。
きょうのみことばは、重い皮膚病を患った人が癒やされる場面です。イエス様は、方々の会堂に行き、たくさんの病人や悪霊に憑かれた人を癒やされ、その評判はガリラヤ付近の全地域に広まりっていきました。この一人の重い皮膚病を患った人もイエス様のことを耳にしたのでしょう。当時、重い皮膚病を患った人たちは、ユダヤ人社会から隔離され町の外に住まわされていましたし、町の中に入る時には、自分たちが「汚れている、汚れている」と叫ばなければならなかったのです(レビ13・45)。彼にとって、このことはどんなに惨めで、屈辱な思いに耐えなければならなかったことでしょう。町の人は、家の窓を閉め、恐れと軽蔑の目を向け、罵倒を浴びせる人や石を投げる人もいたかもしれません。
きっと、この重い皮膚病を患った人も「汚れている、汚れている」と言ってイエス様の所に近づいて行ったのではないでしょうか。弟子たちは、この人に対してどのように振舞ったでしょう。他のユダヤ人たちと同じようにこの人に対して軽蔑し、避けようとしたのでしょうか。みことばには、弟子たちの様子は書かれていません。もしかしたら、イエス様がどのようにこの人と接するのだろうかと様子を伺っていたのかもしれません。
この人は、イエス様の所にきて「ひざまずき、『お望みなら、わたしを清くすることがおできになります』」と願います。この言葉は、重い皮膚病を患った人がいかに苦しみ、屈辱に耐えてきたのかという「心からの叫び、懇願」だったのです。この人は、自分を清くしてくださる人は、「イエス様しかいない。けれど、自分のように汚れた人がイエス様の所に行っていいのだろうか。」と悩みに悩んだ末、勇気を持って決心しイエス様の所に行ったのでしょう。彼は、立ったままではなく、ひざまずいてへりくだり、イエス様に「清くしてください」と願います。きっとイエス様の顔を見上げることもできず、下を向いていたのかもしれません。この人はどのような思いでイエス様の前にひざまずいていたのでしょう。
イエス様は、「憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り、『わたしは望む、清くなれ』」と言われます。この【憐れみ】というのは、「はらわた」という意味のようで、心の底から出てくるような深い共感と言ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、この人がどのように苦しみ理不尽さに耐え、もがき、人生に失望し、時には自分をも呪うという思いを心の底から感じられます。イエス様は、この人に対してそのように追い込んだ、人々の心や考え、社会の偏見などに対して怒りを覚えたことでしょう。そして、普通の人だったら自分が汚れることを恐れ、罪人に近寄ることも、また、触ることもしないでしょうが、イエス様は、近寄り手を差し伸べ、その人に触ります。もしかしたら、イエス様も身をかがめ、この人を抱き抱え「わたしは望む、清くなれ」と言われたのではないでしょうか。
この人は、イエス様の「わたしは望む、清くなれ」という言葉によって「たちまち」、重い皮膚病が治り、清くなります。彼の今までの苦しみが、潮が引くようにみるみるうちに癒やされ、清くなっていったのです。私は、およそ30数年間「尋常性乾癬」という皮膚病を患って、今も治療をしています。今は、幸い良い薬に恵まれ、ほとんど目立つような乾癬の症状は出ていません。皮膚が赤くなって、かゆみやふけのように皮膚が落ちる鱗屑(りんせつ)や、時には皮膚をかきむしって血が出るという状態でした。そのような自分の肌が、薬で症状が治るという体験は、なんとも言えない喜びでした。きっと、この人も心の底から喜びを感じたことでしょう。
さて、イエス様は、彼に対してきびしく戒め、「誰にも話さないように注意しなさい。」と言われて立ち去らせます。なぜ、イエス様は、きびしく戒められこのような言葉をかけられたのでしょう。それは、人々がイエス様の所に行けばなんでも癒され、治してくださると安易に思い、「おん父の働き、栄光、悪に対する怒り、一人ひとりに対する【憐れみ】」を忘れてしまう傾きを注意されたのでしょう。しかし、この人は、自分の病気が治って、清くなったことの喜びのため、この出来事を言いふらしはじめます。イエス様は、この人の行いをどのように感じられたことでしょう。確かに、自分の皮膚が治ったことを今まで自分を蔑み、毛嫌いしていた人たちに知ってもらいたい、という気持わからないわけでもないでしょうが、同時に、人の「弱さ」も改めて気づかれたのではないでしょうか。
きょうのみことばは、【重い皮膚病】からの癒しでした。しかし、私たちは、目に見える【皮膚病】がないにしても、いくつかの欠点、罪への傾向、悩みや苦しみを持っているのではないでしょうか。イエス様は、そのような私たちを【憐れに】思われ、「わたしは望む、清くなれ」と言ってくださいます。私たちは、イエス様に信頼して「清くしてください」と祈ることができたらいいですね。
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