四旬節第5主日(ヨハネ11・1〜45)
- 2020/03/27
- 09:20
「あなたの息を」という種
典礼では、いよいよ四旬節の最後の週になり、来週は「受難の主日」を迎えます。この四旬節を改めて振り返ってみるのもいいかもしれません。
きょうのみことばは、イエス様が愛しておられた「ラザロ」が復活する場面です。イエス様は、ご自分が受難と復活の前におん父の力によってラザロを復活させ、人々がおん父のみ業を信じるために最後の奇跡を行われます。
ラザロには、マルタをマリアという姉妹がいました。マリアはかつてイエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐったこと罪を許された女性でした。たぶんこのことがきっかけとなり、イエス様は、彼女とその姉妹マルタとラザロとも親しく付き合うようになったのではないでしょうか。きょうのみことばの中では、イエス様がこの兄弟、姉妹たちとの深い愛の絆を思わせる箇所が度々表れています。
彼女たちはラザロが病気になったので、イエス様の所に人を遣わして、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えます。しかし、イエス様は、「この病気は死ぬほどのものではない。神の栄光のためのものであり、神の子はそれによって栄光を受けることになる」と言われます。ここでイエス様が言われる【栄光】とは、ご自分がおん父のみ旨である【死と復活】をなさることでした。実際、ラザロの復活がきっかけとなって、ファリサイ派の人々はイエス様を殺そうという計画が企てます(11・50)。イエス様は、ラザロが病気であることを聞いてからも同じ場所に2日間留まられますが、どのようなお気持ちで過ごされたのでしょうか。本来なら彼の病気の知らせを聞いて直ぐにでも見舞いに行きたかったことでしょう。しかし、おん父のみ旨を果たすために行くことを我慢され、その間彼のために祈られたのではないでしょうか。
イエス様は3日目に弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」と言われてベタニアに行かれます。そう言いながらもイエス様は、弟子たちに「ラザロは死んだのだ。わたしがそこに居合わせなかったことは、あなた方のためによかった。あなた方が信じるようになるためである。ともかく、ラザロの所に行こう」(11・15)と言われます。この言葉は、イエス様が「早く、ラザロの所に行きたい」という気持ちの表れと共に、弟子たちやマルタとマリアを含め、ラザロの復活を見た周りの人たちがおん父のことを【信じる】ことになるために必要なことなのです、ということも含まれているのではないでしょうか。
さて、イエス様が来られたことを聞いたマルタは、イエス様に「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死なかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神がかなえてくださると、今でもわたしは知っております」と伝えます。イエス様は、マルタのこの言葉を聞いたのち、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」と言われます。この2人の対話は、マルタが「はい、主よ、あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております」と【信仰宣言】をするために必要なことだったのです。
イエス様は、私たちにも同じように言われているのではないでしょうか。私たちは、イエス様が言われる【永遠の命】を頂くために洗礼の恵みを受けました。イエス様のこの言葉は、私たちにとって生涯の【目標】ですし【力の源】と言ってもいいでしょう。私たちも彼女と同じように「わたしは信じております」と改めて【信仰宣言】をすることができたいいですね。
イエス様は、マリアにも会われます。マリアもマルタと同じように「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死なかったでしょう」とイエス様に伝えます。私たちは辛い体験にあうときイエス様がおられないのではないかと思うようなことがあります。私たちはマルタやマリアと同じようにイエス様に伝えているのかもしれません。しかし、イエス様は、彼女や周りの人たちが泣いているのを見て、ラザロの死を彼らと一緒になって悲しまれ涙を流されたように、私たちの側にいつもおられ、悲しいときも、苦しいときも一緒になって涙を流されるお方です。
イエス様は、彼女たちに「ラザロをどこに置いたのか」と言われた後、ラザロが葬られた墓に行かれ、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。……あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです」(11・42)と言われた後、「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれます。私たちは、息を吐きながら叫びます。イエス様のこの叫びは、ラザロに対して息(霊)を吐き掛けられたのではないでしょうか(エゼキエル37・14)。イエス様は、私たちが辛くて苦しいとき、自分を見失っているようなとき、「ラザロ、出てきなさい」と言われて息(霊)を吐きかけてくださることでしょう。私たちは、イエス様に「あなたをもっと信じる者にならせてください。あなたの息を吐きかけてください」と祈ることができたらいいですね。
典礼では、いよいよ四旬節の最後の週になり、来週は「受難の主日」を迎えます。この四旬節を改めて振り返ってみるのもいいかもしれません。
きょうのみことばは、イエス様が愛しておられた「ラザロ」が復活する場面です。イエス様は、ご自分が受難と復活の前におん父の力によってラザロを復活させ、人々がおん父のみ業を信じるために最後の奇跡を行われます。
ラザロには、マルタをマリアという姉妹がいました。マリアはかつてイエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐったこと罪を許された女性でした。たぶんこのことがきっかけとなり、イエス様は、彼女とその姉妹マルタとラザロとも親しく付き合うようになったのではないでしょうか。きょうのみことばの中では、イエス様がこの兄弟、姉妹たちとの深い愛の絆を思わせる箇所が度々表れています。
彼女たちはラザロが病気になったので、イエス様の所に人を遣わして、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えます。しかし、イエス様は、「この病気は死ぬほどのものではない。神の栄光のためのものであり、神の子はそれによって栄光を受けることになる」と言われます。ここでイエス様が言われる【栄光】とは、ご自分がおん父のみ旨である【死と復活】をなさることでした。実際、ラザロの復活がきっかけとなって、ファリサイ派の人々はイエス様を殺そうという計画が企てます(11・50)。イエス様は、ラザロが病気であることを聞いてからも同じ場所に2日間留まられますが、どのようなお気持ちで過ごされたのでしょうか。本来なら彼の病気の知らせを聞いて直ぐにでも見舞いに行きたかったことでしょう。しかし、おん父のみ旨を果たすために行くことを我慢され、その間彼のために祈られたのではないでしょうか。
イエス様は3日目に弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」と言われてベタニアに行かれます。そう言いながらもイエス様は、弟子たちに「ラザロは死んだのだ。わたしがそこに居合わせなかったことは、あなた方のためによかった。あなた方が信じるようになるためである。ともかく、ラザロの所に行こう」(11・15)と言われます。この言葉は、イエス様が「早く、ラザロの所に行きたい」という気持ちの表れと共に、弟子たちやマルタとマリアを含め、ラザロの復活を見た周りの人たちがおん父のことを【信じる】ことになるために必要なことなのです、ということも含まれているのではないでしょうか。
さて、イエス様が来られたことを聞いたマルタは、イエス様に「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死なかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神がかなえてくださると、今でもわたしは知っております」と伝えます。イエス様は、マルタのこの言葉を聞いたのち、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」と言われます。この2人の対話は、マルタが「はい、主よ、あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております」と【信仰宣言】をするために必要なことだったのです。
イエス様は、私たちにも同じように言われているのではないでしょうか。私たちは、イエス様が言われる【永遠の命】を頂くために洗礼の恵みを受けました。イエス様のこの言葉は、私たちにとって生涯の【目標】ですし【力の源】と言ってもいいでしょう。私たちも彼女と同じように「わたしは信じております」と改めて【信仰宣言】をすることができたいいですね。
イエス様は、マリアにも会われます。マリアもマルタと同じように「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死なかったでしょう」とイエス様に伝えます。私たちは辛い体験にあうときイエス様がおられないのではないかと思うようなことがあります。私たちはマルタやマリアと同じようにイエス様に伝えているのかもしれません。しかし、イエス様は、彼女や周りの人たちが泣いているのを見て、ラザロの死を彼らと一緒になって悲しまれ涙を流されたように、私たちの側にいつもおられ、悲しいときも、苦しいときも一緒になって涙を流されるお方です。
イエス様は、彼女たちに「ラザロをどこに置いたのか」と言われた後、ラザロが葬られた墓に行かれ、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。……あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです」(11・42)と言われた後、「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれます。私たちは、息を吐きながら叫びます。イエス様のこの叫びは、ラザロに対して息(霊)を吐き掛けられたのではないでしょうか(エゼキエル37・14)。イエス様は、私たちが辛くて苦しいとき、自分を見失っているようなとき、「ラザロ、出てきなさい」と言われて息(霊)を吐きかけてくださることでしょう。私たちは、イエス様に「あなたをもっと信じる者にならせてください。あなたの息を吐きかけてください」と祈ることができたらいいですね。
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