四旬節第4主日(ヨハネ9・1〜41)
- 2020/03/20
- 11:02
「主の働きを感じる」という種
私たちは、聖体に対して、「ここに『イエス・キリスト』がいる」と感じて聖体を拝領しているでしょうか。私がいる修道会では、毎日祭壇に聖体を顕示して聖体訪問をしています。この聖体訪問は、目に見える白いホスチアの中に【イエス・キリスト】がおられると感じること、対話すること、黙想し、観想する大切な時間です。創立者は、この大切な時間を私たちパウロ家族に与えてくださったのです。
きょうのみことばは、生まれつきの盲人がイエス様から癒される場面です。イエス様は、通りがかりに生まれつき目が見えない人をご覧になられます。弟子たちは、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。……」とイエス様に尋ねます。イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである。……世にいる間、わたしは世の光である」(ヨハネ9・2〜5)と言われます。当時の人たちは、病気や不幸が起こると両親や祖先、または本人の罪の結果だと信じていたようです。ですから弟子たちは、この盲人が誰かの罪の結果だと思っていたのです。しかし、イエス様は、誰の罪でもなく「むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである」と言われます。
イエス様は、彼の目にご自分のつば地面に吐かれ、泥を作ってその人の目に塗られ、「シロアムという池で洗いなさい」と言われます。この盲人は、イエス様から言われた通りにして見えるようになって帰ってきます。彼は、今までのように人々から「罪人」として扱われるという苦しみから開放されたのです。人々は、彼の目が見えて戻ってきたことに不信を抱きます。それまで彼は、物乞いをしていました。それで彼は「わたしです」と言います。この「わたしです」という言葉の中には、自分のことを証明する言葉ではなく、「今までのような物乞いではなく、【自立できる】ようになりました」という意味のようです。彼は、イエス様に触れられて変えられたのです。
人々は、彼をファリサイ派の人々の所に連れて行きます。彼らも同じようにどのようにして見えるようになったのかを彼に尋ねます。ファリサイ派の人々は、イエス様が行った奇跡に対して「神の業かどうか」ということで意見が分かれます。それで、再び彼に「お前の目を開けてくれたそうだが、お前は彼のことをどう思うか」と質問します。その人は、「あの方は預言者です」と答えます。ファリサイ派の人々は、彼がイエス様から言われた通りにして目が見えるようになったことの喜び、恵み、そこに働いたおん父の業を分かち合うのではなく、安息日に奇跡をおこなったイエス様をどう扱うべきか、罪人か預言者かというところに焦点を置いていました。私たちは、時々そこで起こった恵みではなく、目に見える事実だけで議論を交わしたり、別の話にすり替えたりしてしまう傾向があります。大切な目に見えない三位一体の神様の【業】が働いたことを感じることができたらいいですね。
ファリサイ派の人々は、彼が「あの方は預言者です」と言ったのにもかかわらず、両親を呼び出して「この者はあなたの息子なのか。生まれつき目が見なかった、とあなた方は言っているが……。ではどうして今は見えるのか」と尋ねます。彼らは、頑なにイエス様のことを預言者、メシアとして認めようとしなかったのです。そればかりか、イエス様のことを「預言者、メシア」と言った人を会堂から追放すると決めていました(ヨハネ9・23)。この「会堂から追放」されるとユダヤ人社会から追い出され、人権を剥奪されるという死活問題にまで関わってくることなのです。ですから、彼の両親は、彼らの質問に対して「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言って自分たちを守ろうとします。再びファリサイ派の人々は、彼に対して尋問を続けた末、「お前は全身罪にまみれて生まれたのに、われわれに教えようとするのか」と言い返して、その人を外に追い出します。そう、彼はついにユダヤ人社会から追放されたのです。
彼は、人々に「盲人」というだけで「罪人」として扱われ、ようやく「自立」できたかと思ったら、今度はイエス様を「預言者、メシア」と言ったことで追放されたのです。イエス様は、彼が追い出されたと聞き、彼に会って「あなたは人の子を信じるか」と尋ねられます。彼は、イエス様に「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝します。彼は、心から信仰宣言をしてイエス様についていくことを固く決心したのではないでしょうか。イエス様は、ファリサイ派の人々に対して「……『見える』とあなた方が言っている以上、あなた方の罪は残る」(ヨハネ9・41)と言われます。イエス様は、私たちに「自分は『見えていない者』という謙遜な心」を教えてくださっているのではないでしょうか。
イエス様は、私たちの所に「世の光」(ヨハネ8・12、9・5)として来られました。私たちは、光がないと何も見ることができません。私たちは、イエス様の光を頂いて、イエス様の恵み、おん父の働きを心の目で観て感じそれを周りの人と分かち合うことができたらいいですね。
私たちは、聖体に対して、「ここに『イエス・キリスト』がいる」と感じて聖体を拝領しているでしょうか。私がいる修道会では、毎日祭壇に聖体を顕示して聖体訪問をしています。この聖体訪問は、目に見える白いホスチアの中に【イエス・キリスト】がおられると感じること、対話すること、黙想し、観想する大切な時間です。創立者は、この大切な時間を私たちパウロ家族に与えてくださったのです。
きょうのみことばは、生まれつきの盲人がイエス様から癒される場面です。イエス様は、通りがかりに生まれつき目が見えない人をご覧になられます。弟子たちは、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。……」とイエス様に尋ねます。イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである。……世にいる間、わたしは世の光である」(ヨハネ9・2〜5)と言われます。当時の人たちは、病気や不幸が起こると両親や祖先、または本人の罪の結果だと信じていたようです。ですから弟子たちは、この盲人が誰かの罪の結果だと思っていたのです。しかし、イエス様は、誰の罪でもなく「むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである」と言われます。
イエス様は、彼の目にご自分のつば地面に吐かれ、泥を作ってその人の目に塗られ、「シロアムという池で洗いなさい」と言われます。この盲人は、イエス様から言われた通りにして見えるようになって帰ってきます。彼は、今までのように人々から「罪人」として扱われるという苦しみから開放されたのです。人々は、彼の目が見えて戻ってきたことに不信を抱きます。それまで彼は、物乞いをしていました。それで彼は「わたしです」と言います。この「わたしです」という言葉の中には、自分のことを証明する言葉ではなく、「今までのような物乞いではなく、【自立できる】ようになりました」という意味のようです。彼は、イエス様に触れられて変えられたのです。
人々は、彼をファリサイ派の人々の所に連れて行きます。彼らも同じようにどのようにして見えるようになったのかを彼に尋ねます。ファリサイ派の人々は、イエス様が行った奇跡に対して「神の業かどうか」ということで意見が分かれます。それで、再び彼に「お前の目を開けてくれたそうだが、お前は彼のことをどう思うか」と質問します。その人は、「あの方は預言者です」と答えます。ファリサイ派の人々は、彼がイエス様から言われた通りにして目が見えるようになったことの喜び、恵み、そこに働いたおん父の業を分かち合うのではなく、安息日に奇跡をおこなったイエス様をどう扱うべきか、罪人か預言者かというところに焦点を置いていました。私たちは、時々そこで起こった恵みではなく、目に見える事実だけで議論を交わしたり、別の話にすり替えたりしてしまう傾向があります。大切な目に見えない三位一体の神様の【業】が働いたことを感じることができたらいいですね。
ファリサイ派の人々は、彼が「あの方は預言者です」と言ったのにもかかわらず、両親を呼び出して「この者はあなたの息子なのか。生まれつき目が見なかった、とあなた方は言っているが……。ではどうして今は見えるのか」と尋ねます。彼らは、頑なにイエス様のことを預言者、メシアとして認めようとしなかったのです。そればかりか、イエス様のことを「預言者、メシア」と言った人を会堂から追放すると決めていました(ヨハネ9・23)。この「会堂から追放」されるとユダヤ人社会から追い出され、人権を剥奪されるという死活問題にまで関わってくることなのです。ですから、彼の両親は、彼らの質問に対して「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言って自分たちを守ろうとします。再びファリサイ派の人々は、彼に対して尋問を続けた末、「お前は全身罪にまみれて生まれたのに、われわれに教えようとするのか」と言い返して、その人を外に追い出します。そう、彼はついにユダヤ人社会から追放されたのです。
彼は、人々に「盲人」というだけで「罪人」として扱われ、ようやく「自立」できたかと思ったら、今度はイエス様を「預言者、メシア」と言ったことで追放されたのです。イエス様は、彼が追い出されたと聞き、彼に会って「あなたは人の子を信じるか」と尋ねられます。彼は、イエス様に「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝します。彼は、心から信仰宣言をしてイエス様についていくことを固く決心したのではないでしょうか。イエス様は、ファリサイ派の人々に対して「……『見える』とあなた方が言っている以上、あなた方の罪は残る」(ヨハネ9・41)と言われます。イエス様は、私たちに「自分は『見えていない者』という謙遜な心」を教えてくださっているのではないでしょうか。
イエス様は、私たちの所に「世の光」(ヨハネ8・12、9・5)として来られました。私たちは、光がないと何も見ることができません。私たちは、イエス様の光を頂いて、イエス様の恵み、おん父の働きを心の目で観て感じそれを周りの人と分かち合うことができたらいいですね。
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