四旬節第2主日(マタイ17・1〜9)
- 2020/03/06
- 09:15
「彼に聞け」という種
私たちは、共同で何かをするときには、リーダーの指示に従って目標に向かわなければなりません。例えば、合奏や合唱など、指揮に従わないとリズムや抑揚、表現などバラバラになってしまいます。共同体で動くときには、全体を導く人が大切になっていくのです。
きょうのみことばは、【主の変容】の場面です。みことばは、「6日の後」という言葉から始まっています。この「6日の後」という言葉は、マタイ福音書とマルコ福音書は共通しているのですが、ルカ福音書だけが「8日の後」(ルカ9・28)となっています。なぜ、ルカだけが違うのでしょうか。翻訳の違いなのか、写本のときに間違ったのかなどと考えてもみました。もしかしたら不完全な数字ということではないかと思うのです。聖書の中では、【7】というのが完全な数字として用いられていますから、【7日】に満たない【6日】または、【7日】を過ぎた【8日】というのは、不完全な日と言えるかも知れません。
この「主の変容」の箇所は、イエス様が弟子たちにご自分の『受難の予告』をしてから後の日数から始まっています。弟子たちは、イエス様から「エルサレムに行き、長老、祭司長や、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、3日目に復活する」と言われたことが理解できず、ペトロでさえイエス様から「サタン、引き下がれ。」と言われたくらいですから他の弟子も、混乱と不安を覚えたことでしょう。この弟子たちの混乱と不安の気持ちの日数が「7日間」を中心にした不完全な日数として表すようになったのではないでしょか。
イエス様は、ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山にお登りになられます。イエス様は、よくこの3人の弟子たちだけを連れて行動されます。この3人はイエス様が最初に選ばれた弟子たちには違いありませんが、なぜか、アンデレだけは、入っていません。ちょっとかわいそうな気もします。ただ、イエス様は、弟子たちの中にもリーダー的な人を養成しようとしていたのかも知れません。
さて、イエス様が3人の弟子たちを連れて登った山は、現在の「タボル山」と言われ、標高575メートルのお椀を逆にしたような山です。そんなに高いというようには、思えませんが山頂に近づくとかなり急勾配で道も狭くなり大型バスは途中で小型のバスに乗り換えていくようなところです。もちろん当時は、歩いて登ったことでしょうし、道も今のように舗装されていませんでしたのでかなり辛かったのではないでしょうか。山頂は、平で広く「主の変容の教会」が建てられています。聖書の中では、【山】は聖なる場所とされていました。
イエス様は弟子たちと共に登り終えると、彼らが見ている前で姿を変えられます。みことばは、「顔は太陽のように輝き、衣は光のように白く光った」と表現しています。この姿は、イエス様が復活された時の様子と言われています。そこでイエス様は、モーセとエリアと共に語り合われます。なんだか不思議な光景ですし、一体何を話されていたのでしょう。その場面は、ペトロが口を挟んで「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。」と言ったことでわかるのですが、とても心地よく、いつまでもこの時間が続けばいいのに、と思うほどの神秘な体験だったのではないでしょうか。
しかし、この心地よい場面は長く続きません。ペトロが言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼に聞け」という声がします。弟子たちは、これを聞いて倒れ伏し、非常に恐れます。彼らは、神の存在を表している「雲」を通しておん父を感じ、声を聞き、自分たちの罪ふかさを感じて、畏れを抱いて倒れたのではないでしょうか。イエス様は、そんな彼らに近づき触れられます。イエス様の手の温もり、触られた時の感覚は、彼らにどのように伝わったのでしょうか。イエス様は、彼らに「起きなさい。恐れことはない」と言われます。この言葉は、彼らにとってとても優しく、温かい愛で満ちた言葉だったことでしょう。
彼らは、目を上げてみるとイエス様だけがそこにいました。モーセもエリアもそしておん父もいませんでした。しかし、彼らの心の中には、今体験したことが生涯忘れられないこととなったに違いありません。おん父の言葉は、イエス様がおん父から愛された子であること、また、おん父のみ旨を行う方であること、だから、彼に聞き従いなさい、と弟子たちに告げることだったのではないでしょうか。イエス様の弟子たちは、自分を捨て、自分の十字架を担って、従わなければなりません(マタイ16・24)。このおん父の言葉は、イエス様の弟子として、イエス様に【聞く】ということを体験を通して示されたのではないでしょうか。
イエス様は、再び弟子たちと共に山を降りられます。イエス様は、いつも弟子たちと共におられ、同伴されるお方です。私たちは、このイエス様に聞き従い、教会共同体と共にみことばを伝える使命をいただいています。私たちは、イエス様と共に山に登りおん父「彼に聞け」という言葉をいただきました。私たちは、この言葉を黙想しながらイエス様と共に歩んでいくことができたらいいですね。
私たちは、共同で何かをするときには、リーダーの指示に従って目標に向かわなければなりません。例えば、合奏や合唱など、指揮に従わないとリズムや抑揚、表現などバラバラになってしまいます。共同体で動くときには、全体を導く人が大切になっていくのです。
きょうのみことばは、【主の変容】の場面です。みことばは、「6日の後」という言葉から始まっています。この「6日の後」という言葉は、マタイ福音書とマルコ福音書は共通しているのですが、ルカ福音書だけが「8日の後」(ルカ9・28)となっています。なぜ、ルカだけが違うのでしょうか。翻訳の違いなのか、写本のときに間違ったのかなどと考えてもみました。もしかしたら不完全な数字ということではないかと思うのです。聖書の中では、【7】というのが完全な数字として用いられていますから、【7日】に満たない【6日】または、【7日】を過ぎた【8日】というのは、不完全な日と言えるかも知れません。
この「主の変容」の箇所は、イエス様が弟子たちにご自分の『受難の予告』をしてから後の日数から始まっています。弟子たちは、イエス様から「エルサレムに行き、長老、祭司長や、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、3日目に復活する」と言われたことが理解できず、ペトロでさえイエス様から「サタン、引き下がれ。」と言われたくらいですから他の弟子も、混乱と不安を覚えたことでしょう。この弟子たちの混乱と不安の気持ちの日数が「7日間」を中心にした不完全な日数として表すようになったのではないでしょか。
イエス様は、ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山にお登りになられます。イエス様は、よくこの3人の弟子たちだけを連れて行動されます。この3人はイエス様が最初に選ばれた弟子たちには違いありませんが、なぜか、アンデレだけは、入っていません。ちょっとかわいそうな気もします。ただ、イエス様は、弟子たちの中にもリーダー的な人を養成しようとしていたのかも知れません。
さて、イエス様が3人の弟子たちを連れて登った山は、現在の「タボル山」と言われ、標高575メートルのお椀を逆にしたような山です。そんなに高いというようには、思えませんが山頂に近づくとかなり急勾配で道も狭くなり大型バスは途中で小型のバスに乗り換えていくようなところです。もちろん当時は、歩いて登ったことでしょうし、道も今のように舗装されていませんでしたのでかなり辛かったのではないでしょうか。山頂は、平で広く「主の変容の教会」が建てられています。聖書の中では、【山】は聖なる場所とされていました。
イエス様は弟子たちと共に登り終えると、彼らが見ている前で姿を変えられます。みことばは、「顔は太陽のように輝き、衣は光のように白く光った」と表現しています。この姿は、イエス様が復活された時の様子と言われています。そこでイエス様は、モーセとエリアと共に語り合われます。なんだか不思議な光景ですし、一体何を話されていたのでしょう。その場面は、ペトロが口を挟んで「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。」と言ったことでわかるのですが、とても心地よく、いつまでもこの時間が続けばいいのに、と思うほどの神秘な体験だったのではないでしょうか。
しかし、この心地よい場面は長く続きません。ペトロが言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼に聞け」という声がします。弟子たちは、これを聞いて倒れ伏し、非常に恐れます。彼らは、神の存在を表している「雲」を通しておん父を感じ、声を聞き、自分たちの罪ふかさを感じて、畏れを抱いて倒れたのではないでしょうか。イエス様は、そんな彼らに近づき触れられます。イエス様の手の温もり、触られた時の感覚は、彼らにどのように伝わったのでしょうか。イエス様は、彼らに「起きなさい。恐れことはない」と言われます。この言葉は、彼らにとってとても優しく、温かい愛で満ちた言葉だったことでしょう。
彼らは、目を上げてみるとイエス様だけがそこにいました。モーセもエリアもそしておん父もいませんでした。しかし、彼らの心の中には、今体験したことが生涯忘れられないこととなったに違いありません。おん父の言葉は、イエス様がおん父から愛された子であること、また、おん父のみ旨を行う方であること、だから、彼に聞き従いなさい、と弟子たちに告げることだったのではないでしょうか。イエス様の弟子たちは、自分を捨て、自分の十字架を担って、従わなければなりません(マタイ16・24)。このおん父の言葉は、イエス様の弟子として、イエス様に【聞く】ということを体験を通して示されたのではないでしょうか。
イエス様は、再び弟子たちと共に山を降りられます。イエス様は、いつも弟子たちと共におられ、同伴されるお方です。私たちは、このイエス様に聞き従い、教会共同体と共にみことばを伝える使命をいただいています。私たちは、イエス様と共に山に登りおん父「彼に聞け」という言葉をいただきました。私たちは、この言葉を黙想しながらイエス様と共に歩んでいくことができたらいいですね。
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