年間第13主日(マルコ5・21〜43)
- 2021/06/25
- 08:33
「触れる」という種 私たちは、ケガや病気をすると「軽症」「重症」に関わらず「早く治って元気な私に戻りたい」と思うものです。きょうのミサの『集会祈願』で「いのちのパンをいただいて、生きる喜びを新たにすることができますように」と司祭は唱えます。どんな時にでもこの祈りに支えられて歩むことができたらいいですね。 きょうのみことばは、「ヤイロの娘と出血病の女性」が癒やされる場面です。イエス様たちは、舟でカフ...
年間第12主日(マルコ4・35〜41)
- 2021/06/18
- 08:13
「イエス様と共に」という種 私たしは、日常生活の中で予期しない事態に遭遇することが時々あります。または、何かの大きな壁が立ちはだかり、うまい具合に前に進むことができないこともあることでしょう。そのようなとき、私たちは気が動転し、「ああ、どうしよう」といろいろなことを考えたり、何日も思い悩んだりもすることでしょう。ひどい時には、病気になることもあるかもしれません。私の場合は、「イエス様、なんとかして...
年間第11主日(マルコ4・26〜34)
- 2021/06/11
- 08:19
「信仰の種」という種 農家の人たちは、作物を収穫する時期を考えて種を蒔きます。例えば、夏の果物の定番の一つであるスイカは、3月中旬から4月中旬にかけて種を蒔きます。そうすると私たちは、7月、8月にかけておいしスイカを食べることができるのです。農家の人たちは、作物の成長に応じて水や肥料をやったり、雑草を抜いたりして大切に育てて行きます。私たち一人ひとりに蒔かれた信仰の種は同じようにおん父の愛によって成長...
キリストの聖体(マルコ14・12〜16、22〜25)
- 2021/06/04
- 09:15
「聖体に心を向ける」という種 私がいる修道院では、昨年から高齢の司祭がミサを司式する時の「聖体授与」は、比較的若いブラザーが行うようになりました。それで、私もミサの中で聖体授与の奉仕をしています。まず、授与するときは、奉仕者が司祭から聖体を受けた後に会衆に「キリストのおん体」と聖体を渡します。ある時、私は「この小さなホスチアは本当にキリストの体なのだ」と心と体で実感したのです。もちろん、それまでも...