年間第26主日 (マルコ9・38〜43、45、47〜48)
- 2015/09/25
- 07:14
「1杯の水を与える人になる」という種 私たちにとって【誘惑】とは、何なのでしょうか。辞書には、「心を迷わせ、誘い込むこと。良くないことにおびき出すこと。相手を、その本来の意図に反する方向(置かれるべき状況)とは異なった状態に誘い込むこと。」とあります。聖書に書かれてある最初の【誘惑】は、「神のようになること」ということを、蛇が女に伝える場面です(創世記3・5)。では、私たちにとっての【誘惑】とは、何...
年間第25主日 (マルコ9・30〜37)
- 2015/09/18
- 07:22
みなに仕える者になるという種 誰でも、苦しいことや辛いことをなるべくなら避けたいという気持ちは、当たり前のことだと思います。だれも、好き好んで苦しいことや辛いことを受け入れる人はいません。それでも、私たちは、これらのことが起こってきます。「辛いことや苦しいこと、悲しいことを人に話すと、それは、半分になる。反対に、嬉しいことを人に話すと倍になる」ということを耳にします。私たちは、人に話すだけで本当に...
年間第24主日 (マルコ8・27〜35)
- 2015/09/11
- 08:24
いつも傍におられるという種 ときどき、「どのように、祈りをしたらいいのでしょう。」とか、「祈りをしているのですが、イエス様を感じないのです。」ということを伺ったことがあります。また、時には、「この、みことばに出会って、私の気持ちがストーンと腑に落ちました。本当にイエス様っておられるのですね。」というようなことも伺います。私たちは、日常の中でイエス様の存在を感じることができるときと、感じないときがあ...
年間第23主日 (マルコ7・21〜37)
- 2015/09/04
- 08:13
「『エッファタ』からの喜びを伝える」という種 以前、私は「突発性難聴」という病気にかかったことがあります。元々片方の耳の聞こえが良くなかったのですが、さらに、この病気で聴力が一時的ではありますが落ちてしまいました。処置が早かったために、今は普通に聞こえることができますが、人の話が聞こえづらいというのは、本当にもどかしいし、何度も、相手に聞き直すということは、なんだか、気の毒な感じになるものです。時...